第2話 再会
翌日も俺は昨日と同じく、いつもの電車のいつもの席に座った。
席に着き、新聞を広げる前に、俺は鞄のポケットをまさぐり、昨日拾った銀のペンダントを確認する。それが確かにそこにあることを確認した俺は、あらためて新聞を広げ読み始めた。
新聞を読みながら、俺は昨日の女子高生のことを考えていた。
彼女はこのペンダントが無いことに気付いて慌てただろうか? そりゃそうだろう。彼氏からのプレゼントだ。無いことに気付いた後、必至にあちこちを探しただろう。もしかしたら、昨日のうちに駅の落とし物係に聞きに行ったかも知れない。今更だが、昨日のうちに駅へ届けた方が良かったんだろうか……
帰りも通る訳だから、一旦あの駅で降りて、駅の事務所に届けてあげれば良かった。たいして家路を急ぐ理由など、俺には無い。次ぎに来る電車が各駅停車であっても、充分夕飯には間に合う筈だった。
もし、それが原因で、彼との関係に亀裂が生じたら、彼女は俺を恨むだろうか……
そんなことばかり考えて、ちっとも記事が頭に入ってこない。
俺は新聞を読むのを諦め、広げた新聞を畳んで鞄の上に置き、窓の外を流れる風景に目を移した。
まだ、低い太陽が、春朝の柔らかな光を投げかける町並みが後方に流れていく。欠伸をかみ殺すような朝の町の風景だった。
しばらくして電車は、昨日あの彼女が乗り込んできた駅にさしかかった。
俺は窓の外に流れていくホームに並ぶ乗客の群れを目で追いながら、彼女の姿を探した。
やがて電車が停車し、ドアが開いて数人の乗客が乗り込んでくる。
俺がいつも乗るこの車両は先頭車両だ。通り過ぎてきたホームに彼女の姿は無かったと思う。彼女がこの電車に乗り込んでくるなら、俺が座るこの席の斜め向かいのドアか、先の3つのドアの筈だ。
俺は乗り込んで来る乗客の顔を一人一人見ながら彼女の顔を探した。
何故だろう。妙に胸が高鳴った。
例えるなら、片思いの娘に電車内でラブレターを渡す様な感覚。何とも言えないスリリングさと、不安と、期待とが入り交じった、妙な高揚感。
なんだか少し若返った感じがした。
昨日1度だけ見た少女の顔を、はっきりと憶えているなんて自分でも可笑しかったが、何故か彼女の顔は俺の記憶から離れなかった。
不意にホームに発車を告げるベルが鳴り響き、ドアが閉まった。
彼女は乗ってこなかった。
俺は他のドアから乗り込んだ乗客の顔をもう1度見直し確認したが、そこに彼女の顔は無かった。
俺はもう一度鞄のポケットをまさぐり、ペンダントを取り出して眺めた。
今日は朝練がなかったのかも知れない。
いや、昨日はたまたま、この電車に乗り合わせただけなのだろうか。
俺は非道く残念な気持ちで一杯になった。そしてふと、そんな気持ちになっている自分に苦笑した。
何を考えているんだ、俺は……
自分の娘とそう変わらない歳頃の少女相手に何を期待しようと言うのだ。
まるで同じ年頃の男子学生のようにドキドキするなど…… フフッ、馬鹿げている。
俺は今日の帰りに此処で降り、駅の事務所に届けることを決め、ペンダントを仕舞い。代わりにまた新聞を広げた。
俺は電車に揺られながら新聞を読み続けた。先ほどと違い、今度は内容がちゃんと頭に入ってきてスムーズに読むことが出来た。きっとこの時、俺の中では昨日の彼女のことは、もう毎日の通勤での些細な出来事として記憶の中に埋もれ掛けていたのだ。
しばらくして隣の車両から乗客が移ってきたようだったが、俺は顔を確認せず、少し投げ出しかけていた足を引っ込めて譲り、新聞を読み続けた。
しばらくして、車内アナウンスが次の停車駅を告げた。
昨日の彼女が降りた駅だった。
ふと俺はあることを思いついた。
待てよ、乗った駅と降りた駅。果たしてどちらに届けるべきか……?
今の今まで、俺は彼女が乗りこんで来た駅の事務所に届けるつもりでいた。
しかし、降りた駅の方が自然ではないだろうか?
だが、わざわざ降りた駅に俺が届けるのも、ストーカーみたいな気がしてくる。
俺はふと、新聞を下げて向かいの窓の外を眺めた。
そのとき、向かいの席を見て俺は少し驚いた。
向かいの席に座っていたのは彼女だった。
昨日と変わらない姿で、耳からあのピンクのイヤホンコードを下げたまま、やはりまた居眠りをしているようだった。
そう言えばさっき、乗客がこの車両に移動してきたのを思い出した。
俺は少なからず動揺していた。
全く予想外だった。まるで何の準備もしないまま、あれよ、あれよ、とスタートラインに着かされたリレー選手のような心境だった。
またさっきの動悸が俺の胸を叩いてくる。俺は軽く深呼吸をして鞄のポケットから、あの銀のペンダントを掴んだ。
彼女の降りる駅が近くなってる。それほど迷っている時間はない。たかが、落とし物を渡すだけなのに、何故こうも緊張するのだろう……
俺は意を決して、そそくさと新聞を折り畳んで網棚に上げ、彼女の前まで行き、寝ている彼女の右肩をそっと叩いた。
「あの、ちょっとすいません」
肩を叩く振動に反応し、彼女が起きて顔を上げた。
少し大きめの、子猫のような愛くるしい瞳で俺を見上げ、耳に付けたイヤホンを外すとちょっと意外そうな表情で俺を見つめていた。
正面から見る彼女は、予想以上に美人で、俺をさらに緊張させた。
「ちょっとすいません……」
イヤホンを外したのを見て、俺はもう一度そう言いながら、鞄からペンダントを取り出すと彼女に差し出した。
「これ、君のじゃないか?」
彼女は俺の手のひらにある銀のペンダントに視線を移すと一瞬驚いたように大きな目を見開いた。
「あっ、あたしのです。何処行っちゃったのかと思ってて、なんで……?」
彼女はそう言って、私の手からペンダントをつまみ上げた。
「そうか、良かった。昨日降りるときに落としたんだろうね」
彼女はペンダントを開いて中身を確認し、和らいだ表情になった。
「やっぱり大事な物だったんだね。直接渡せて良かったよ。 彼氏かい?」
俺はそう彼女に言った。余計な一言を添えて……
少しの沈黙の後
「……中見たの?」
彼女は俺を見つめたまま、そう聞いた。その表情は高校生ではなく、大人の女性そのものだった。俺はドキッとしながら少し調子に乗って喋りすぎた自分を呪った。
「いやっ……その、つい何のけなしに空けてしまって……別に詮索するとかそういうふうな事ではなく、悪気があった訳では……」
俺は動揺しつつ、たじろぎながら言い訳にもならない言葉を並べた。いやな汗が噴き出るのを感じる。
「でも、見たんでしょ?」
彼女がもう1度俺に聞いた。俺は次の言葉が見つからず、思わずこう言った。
「ゴメン…… 」
よく考えれば、確かに勝手に中を見たのは失礼かも知れないが、落とし物を拾って礼を言われる前に、中身を見たことを咎めてくるこの少女の方が失礼なのでは? と思わなくもなかった。しかし俺はもうすでにこの時、この少女に完全に降伏していた。彼女の醸し出す独特な雰囲気に飲まれていたと言っても良い。
「見たんだ……」
彼女がそう呟いた時、電車が止まりドアが開いた。彼女はすっと立ち上がった。
「サイアク……」
立ち上がり際に彼女がそう漏らした。揺れる前髪から覗く瞳が視線に絡み、俺は息を飲んだ。一瞬見とれてしまったのだ。
彼女はそのままドアをすり抜け、電車を降りていった。
すぐにベルの音がホームを包み、ドアが閉まった。そして電車が走り出す。
取り残された俺は、周囲の乗客からの好奇な視線を浴びつつ、ホームを歩く彼女を目で追った。彼女は軽快な足取りでホームを歩き、すぐに見えなくなった。
『見たんだ……』彼女は言った
そして
『サイアク……』
スピードを上げだした電車の規則正しい振動音が車内を包む中、彼女の声が、俺の耳にいつまでも残って消えなかった。
俺は嫌われたのか?
なぜ、俺はそんなことを思うのだろう……
その日1日、俺は幾ばくかの罪悪感と自己嫌悪を抱えながら仕事をした。