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第1話 落とし物

 彼女と出会ったのは4月の初め頃だった。

 いつもと同じ通勤電車のいつもの席……俺はそこでいつものように新聞を読んでいた。 俺が乗り込んでから最初の停車駅で、彼女は乗ってきた。

 赤を基調としたチェックの少し短いスカートにベージュのブレザー。

 シミ一つ無い白いブラウスの胸元にさりげなく揺れる赤い小さなリボン。

 肩から提げたテニスラケットのケースを揺らせながら、他の乗客の間を流れるようにすり抜け、俺の前まで来た。

「あのう……此処、いいですか? 」

 少し鼻に掛かったような声で彼女は俺に言った。

「えっ? 」

 俺は新聞から目を離し、彼女を見上げた。大きめの瞳が一瞬俺と目が合った。そのとき少し彼女の目に不思議な変化があったのだが、俺はその意味をずっと後に知ることとなる。

 彼女は続いて俺の隣に視線を移した。そこには俺の鞄があった。

 この電車のこの席は2人掛けである。向かいの席にも空席があったが、そこには男子学生が耳からイヤホンのコードを垂らして座っていた。

 まあ、年頃の女子高生が同年代の男の子と並んで2人掛けの席へ座るのは抵抗があるのだろう……

 俺はそそくさと自分の鞄を膝の上に置き、彼女の席を空けた。彼女は軽い会釈と同時に「すいません」と呟きながら俺の隣に座った。

 振り向き腰を下ろすとき、後ろに束ねた瑞々しい黒髪のポニーテールが揺れ、清楚な柑橘系の香りが俺の鼻腔をくすぐった。

 席に着いた彼女はテニスのラケットケースを足下に立て掛け、鞄からイヤホンを引き抜き耳に付けた。ピンクカラーのコードが何故か彼女には似合わない気がした。

 俺はまた新聞を開き、なるべく彼女に腕が当たらない様に気を付けながら続きを読み始めた。

 しばらく電車に揺られていると、左肩に微かな重みを感じ、彼女の方を見た。

 彼女は居眠りをしていた。

 徐々に俺の方に頭をもたげてきたかと思うと、電車の揺れに反応しては戻る。何度かそれを繰り返していたが、睡魔に抗いきれなかったのか、とうとう完全に俺の肩に頭を持たせながら眠ってしまった。 俺は何度か咳払いをして肩を揺すってみた。しかし彼女は一向に起きる気配が無かった。

 部活の朝練……受験勉強……恐らく居るだろう彼氏との長電話やその彼と遊ぶ時間……

 今頃の女子高生がどんな生活を送っているかなど、今年40になる俺が解るはずもないが、色々あるのだろう……少しの間、ゆっくり寝かせてあげても良いか……

 そんなことを思い、起こすのを諦め、俺はそのまま寝かすことにした。なるべく左肩を揺らさない様に新聞をめくるのは、なかなか難し技術だった。

 しかし、そうなると心配になってくるのが彼女の降りる駅である。

 かなりぐっすり眠っているらしく、微かな寝息と呼吸の度に僅かに上下する胸のリボン以外全く微動だにしない。

 俺は13年間、同じ時刻に来るこの電車に乗っていて、乗り込んでくる乗客のほとんどが見たことある顔だが、この娘は1度も見かけたことがない。周囲に目を向けても彼女と同じ制服を着ている学生は居なかった。

 もう3駅目の停車駅だった。俺は本気で心配になってきた。しかし起こしてまだ先だったらかわいそうだ。だが、乗り越したらもっとかわいそうではないか。

 俺は起こすべきか、それともただのいらぬお節介なのだろうかと心の中で葛藤し、もう新聞どころでは無くなってしまったのだった。

 そうこうしているうちに、電車は俺の降りる駅の1つ手前の停車駅へとさしかかって居た。

 次の駅では俺が降りる。俺が降りれば彼女は目を覚ますだろう。そして目が覚めたとき、降りる駅がまだ先だったら良い。だが、もし乗り越していたら、彼女は落胆するだろう。途中で起こしてあげなかった俺にも少しは責任があるのかも知れない。だいたい、見知らぬ女子高生が居眠りをして寄りかかっていたのを、俺みたいな中年親父がそのままにしているなんて、よく考えたら明らかに変ではないか。端から見ればただのロリコンスケベの変態オヤジと見られても不思議じゃない。それは町で小遣いほしさにオヤジとエッチする女子高生を物色する援助交際オヤジと同類ではないのか……

 そんなことを考えているうちに、電車は駅に止まり、ドアが開いた。

 しばらくして、発車を告げるベルがホームに鳴り響く。

 だがそのとき、彼女が動いた。起きたようだ。

 彼女はホームにある駅名看板を確認すると、軽く舌打ちして足下のラケットケースと膝の鞄を掴み、流れるような動作で閉まり掛けていたドアの外にすり抜けた。

 一瞬の出来事だった。そのしなやかな動作は、俺に野生動物を連想させた。

 ドアが閉まり、動き出した電車の車窓から、手にした新聞を落とし掛けたのもかまわず、ホームに降り立った彼女を目で追った。

 彼女も俺の方を見た。

 目が合った…… 様な気がして反射的に目をそらしてしまった。

 その後、俺はまた新聞を畳み直し続きを読み始めた。しかし、さっきまで感じていた左肩の重みの感触が残っており、何故か気になって全然文章が頭に入ってこなかった。

 さっきまでの心配していた事と、それに伴い考えていた馬鹿な思いに、自然と苦笑が漏れてしまった。

 俺が、娘ほど歳の離れた少女に、ニュースで聞くような事になる訳がない……俺はそんな変態じゃないだろ。端から見たってそう見えるさ……馬鹿な心配をしたものだ……

 そう思うと、本格的に可笑しくなった。声を上げて笑いたい気分だ。

 やがて電車は俺が降りる駅にさしかかった。

 俺は新聞を畳み、網棚に捨てようと席を立った。

 そのとき、何かが座席から落ち、足下に転がった。俺は何気なくそれを拾い顔の前に持ち上げた。それは銀のチェーンが付いたペンダントだった。

 ペンダントトップは今時珍しい写真を入れるロケットタイプだった。

 俺は何気なく蓋を開けてみた。

年の頃は20前歳くらいだろうか。さわやかそうな青年がはにかんだ笑顔でこっちを見ている。

 さっきの彼女の物だろう。写真の主は、少し歳が離れているようだが彼氏だろうか……

 裏返して見ると文字が彫り込んであった。


 I、S S861 MASUZAKI, TOORU TO MIKIKO, ANDOU


 マスザキ トオル 

 この写真に写っている人物だろう。そして

 アンドウ ミキコ

 恐らく彼女の名前だ。どうやら彼からのプレゼントのようだ。今時銀のロケットなど、ずいぶん珍しい贈り物をする青年だ。

 そんなことを考えているうちにベルが鳴り響いて、俺は慌てて電車を降りた。人のことを心配して、自分が乗り越したら笑い話にもないはしない。

 俺は手に持っている銀のロケットを見ながらホームを歩いた。


 さて、どうしたものか…… 大切な物だろうに。明日も乗り合わすだろうか……


 何せ初めて見た娘である。明日も乗ってくるとは限らない。

 明日もし乗ってこなかったら、駅員に届ける事を考え、俺はそれを無くさないように、鞄のいつも使わないポケットに仕舞い、改札に向かった。


 これが彼女との…… ミキとの最初の出会いである。

 まだ少し寒い4月の、良く晴れた日の朝……

 今でも目を閉じれば、そのときのことを鮮明に思い出すことができる。

 やがて、この出会いから始まる電車の中での彼女との関係が、俺の中で忘れられない物になっていくとは、この時は想像すら出来なかった。

 俺はこの時、とんでもない勘違いをしていたのだが、それが解るのはもう少し先の事である。

 そして、この出会いがきっかけで、俺たちは急速に親しくなる訳だが、彼女が何を思い、何を考え、どんな思いをもって俺に接していたのかを、痛恨の思いで知ることになるのももう少し先…… 彼女が俺の前から姿を消した後のことである……



読んでくださった方、ありがとうございます。

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