第9話 電話
彼女と別れた俺は、校舎の正面玄関に向かった。
春の夕暮れ独特の、まだ少し肌寒い風を感じながら敷地内を歩くと、ゆっくりと影を落とす夕日を浴びた、新芽も初々しい葉の隙間を通り抜ける、その風に乗って部活動を終えた生徒達の若々しい会話が聞こえてきた。
学校という特殊な雰囲気は、遙か昔に学生時代を経験した俺のような中年男でさえ、その時の自分を思いだしてしまう不思議な空気を持っているようだ。校門に向かうべく、すれ違う生徒達を眺めながら、何故か彼らの姿に若き日の自分の姿を見てしまうのだった。 そのうちに、正面玄関らしい校舎の入り口にたどり着いた俺は、来客用のスリッパに履き替えると、脇にある来客窓口のガラス戸をノックしようと手を伸ばし、ふと躊躇した。
さて、なんと言おう。
名前も知らなかった女子生徒を訪ねに来た訳である。どのクラスなのかも解らない。従って担任教諭の名前など、解る訳もない。勢い9割で此処まで来てしまった訳だが、果たして、俺はなんと言って尋ねるべきなのだろうか。俺とミッキーの関係を、どうやって説明する? そもそも、関係と呼べるほどの物ですらない。ましてや女子生徒だ。親族でもなく、親子ほど歳の離れた男が尋ねてくること自体、どう考えても不審がられるに決まっている。何も考えずに、勢いだけで此処まで来てしまった自分の行動力に、驚くと共に、計画性の無さに呆れもしていた。そして、それと同時に、急にこみ上げてきた不安さに、腕を動かせずにいた。
そんなことを思いながら、窓の外で躊躇していると、中の女性事務員が気付き、窓を開けて尋ねてきた。
「何かご用ですか? 」
ごく当たり前な台詞で彼女はそう聞いてきた。
「あっ、あの、すいません。こちらにイタガキ・ミキさんという生徒さんが在学していると思うのですが……」
俺は、その後の言葉に詰まってしまった。
「何年何組か、わかりますか? 」
「いえ、学年は3年生だと思うのですが、クラスまではわかりません」
「ちょっと待ってください」
そう言って彼女は、脇にあるパソコンに向かい、キーボードを叩いた。
「ええと――― ああ、3年4組ですね。あれ? でも、この生徒って……」
そう言いながら、言葉を飲み込み、彼女は俺を見た。
「ご家族の方ですか? 」
家族という言葉を聞いて、俺は何故かドキッとした。そりゃそうだ。誰だってそう思う。
「い、いえ、家族ではありません。知り合いというか…… あの、彼女の落とし物を届けにきたのです」
彼女は、一瞬値踏みするように、俺の姿を見直すと、事務的にこう告げた。
「それならば、お預かりいたします。此処に御名前と連絡先、ご住所をご記入下さい」
そう言って、カウンターの上に用紙と鉛筆を差し出した。
「直接、本人に手渡したいのですが、連絡先などを教えていただくことは出来ませんか?」
俺は一応ダメ元で聞いてみた。しかし、彼女からの返答は、俺の予想通りの言葉だった。
「個人情報ですので、それは出来ません。女子生徒ですし、なおさらです。此処に記載していただく貴方の御名前、ご連絡先なども、この件意外には使用いたしませんが、ご不満でしたら御名前だけでも結構です」
俺は少し考え、名前の欄と連絡先の項目を埋めた。連絡先には携帯の番号を入れておいた。それは、ミッキーに会うことを、ほとんど諦めた俺の、僅かな希望だった。そして、鞄からあのペンダントを取り出すと、彼女に渡した。
「確かにお預かりしました。責任を持って、ご家族の方にお渡しいたします」
そう言ってペンダントを受け取ると、彼女はそれを封筒に仕舞った。
俺は、『家族の方に』という彼女の言葉に、少し違和感を憶えた。だが、こんな中年男が、女生徒に合わせろと尋ねてきたのである。あれは彼女なりの、俺への牽制だったのだろう。
「それじゃ、私はこれで失礼いたします」
俺はそう言い残して、玄関を後にした。
外に出ると、俺の落胆した心を写したように、急速にその色を失っていく夕暮れの空が広がっていた。
やはり、会うことは出来なかった。あのペンダントを発見したときの、得も言われぬ期待感も、今では急速に萎んでいる。
俺は、いったい何をやっているのだろう。心の中で何度も、何度もそう繰り返す。鞄の中にあのペンダントが入っていた。ただそれだけの理由で、こんな所までやってくるなんて。俺は自分の中の未練がましさをあらためて認識した。俺はこんなにも、女々しい男だったのだろうか。
校門から出た俺は、立ち止まり振り返って学校を眺めた。もう、2度と来ることはないだろう学校の校舎は、背に浴びた夕日で、長い影を作り、俺の道化振を覆い隠してくれているようだった。
もう、忘れよう。
俺はそう心に決め、駅へと向かって歩いていった。
それから暦は5月に入り、ゴールデンウィークが過ぎて、休み明けの仕事に少々急かされながらの毎日の中で、俺はすっかりミッキーに出会う前の俺に戻っていた。
あれ以来、2度と彼女はあの電車には姿を見せず、俺もそのことについて考えないようになっていった。
そんなある日、俺の携帯に、1本の電話が掛かってきた。
その日、早々と昼食を終えた俺は、昼休みの残りの時間を、事務所の奥のソファーに座りながらTVを見ながら過ごしていた。昼休みの定番とも言える、サングラスのパーソナリティーが司会を務める番組で、毎日立ち替わりのゲストと司会者がトークをする人気のコーナーを、何となく眺めていたのだが、不意に胸元に入れてある携帯が震え、画面から目を離し、携帯を取りだして画面を開き番号を確認する。
日頃、家族の緊急時以外、滅多に着信の無い携帯だったので、震えた瞬間は少し不安になったのだが 、画面に表示されている相手先の番号は、俺の記憶にはない番号だった。
「もしもし? 」
「あ、あの、鈴木さんの携帯で間違いは無かったでしょうか? 」
中年の女性の声だった。無論、声に聞き覚えはない。
「はい。鈴木ですが、どちら様でしょう? 」
「あの、わたくしイタガキと申します。その節は、わざわざ落とし物を届けていただき、大変ありがとうございました。なんのお礼も申し上げぬまま日が経ってしまい、大変失礼いたしました」
とても丁寧なしゃべり方で、好感が持てるのだが、何のことを言っているのか解らず困惑している俺に、相手はこう続けた。
「あ、申し遅れました。わたくしはイタガキ・ミキの母親です」
俺の鼓膜がその名前を脳に伝え、さらにそれを記憶の名前と照合するのに、若干の時間が掛かった。
『じゃあ、またね、俊介』
あの、最後のミッキーの姿が脳裏に浮かんだ。あの、子猫のような瞳を細めて、愛くるしく笑う少女の笑顔。あの笑顔を俺はどうしても偽りには思えなかったのだ。
「あ、ああ。いえいえ、こちらこそ――」
俺は慌ててそう答えた。
「あの子が色々とお世話になったそうで、あの子に成り代わり、お礼申し上げます」
そう言う彼女の言葉に、俺は一瞬ドキリとした。ミッキーは俺のことを何処まで母親に伝えていたのだろう。俺とミッキーは、他人から後ろ指さされるような、やましい関係では断じてない。しかし、お互いの歳の差を考えると、第3者から見れば、明らかに不自然で、素直に『友人でした』で納得できるとも言い切れない。ましてや俺自身、心に仄かな感情の変化を自覚していた訳で、彼女の母親からそんな風に言葉を掛けられると、後ろめたい気持ちになってしまった。今風に言うなら『微妙』そう、まさに『微妙な関係』だったのだ。
「それで、この度お電話したのは、実は私が貴方にお会いしたいと思い、お電話いたしました。突然こんな事を言って、大変恐縮ではございますが、お会いできませんでしょうか?」
「私に、ですか?」
俺は警戒しながら、そう聞いた。
「ええ、お渡ししたい物もあるので。ご都合のよろしい日時を仰っていただければ、合わせます。会っていただけないでしょうか?」
俺と会って、何を話すというのだろう。『もう娘には会わないで欲しい』とでも言いたいのだろうか。いやいや、それどころか、あれ以来会っていない。言われなくとももう会うこともないと思っていたのだ。
確かに、歳は若干違えど、俺にも娘がいるから、そう言う親の気持ちは理解できる。俺だって、青海が何処の誰だか解らない中年男と2人で、親しげに町を歩くなど、想像したくもない。そう思うからこそ、俺は今まで馬鹿な葛藤に悩んできたのだった。
だが、電話向こうの母親の口調は、そんな気持ちを感じさせない言い方だった。どことなく、切実さの様な物が含まれているように、俺には感じた。だが、何故俺に会いたいのだろう。そして、渡したい物とは何なのだろう。迷いや警戒心を、興味と好奇心が凌駕し、俺は母親の申し入れを受けた。
「わかりました。お会いするのはかまいません」
「ありがとうございます。それで、ご都合の方はいつがよろしいでしょうか?」
「私の方は、5時過ぎなら、いつでもかまいませんが」
「そうですか。では、明日の6時はいかがですか? 」
明日? またずいぶんと急な話だった。しかし、俺としても興味があっただけに、早く会ってみたいという事もあった。
「ええ、明日の6時ですね。わかりました。それで、どちらで会いましょうか?」
「あの、恐縮ですが、我が家まで来ていただく事はできませんか?」
「えっ? お宅にですか?」
俺はそう聞き返した。俺はてっきりどこかの喫茶店か何かで会うと思っていた。普通ならそう考えるだろう。しかし何故『家まで来い』なのだろう。
「こちらからお願いして、大変ぶしつけだとは思いますが、出来ればお越し頂きたいと思います。無理でしょうか」
かしこまって喋るその声に、俺は拒否する言葉を持たなかった。
「わかりました。おじゃまさせていただきます」
「ありがとうございます。無理を行って申し訳有りません。それで、住所を言えばわかりますでしょうか?」
「ええ、だいたいわかると思います」
俺がそう答えると、彼女は自宅の住所を告げた。俺はそれを聞きながら、テーブルの上にあるメモ用紙に書き込んだ。最寄りの駅からの大体の道順も聞いた。念のため、電話番号も聞いて置いたので、多分たどり着けるだろう。
「それでは、明日の6時、お待ちしております」
そう言って彼女は電話を切った。最後まで丁寧な口調で、受話器越しに頭を下げている姿が目に浮かぶような、そんな感じのする話し方だった。
俺は携帯を折り畳むと、そのままそれを胸元に仕舞い、住所を記入したメモ用紙を握ったままドカッとソファーに座り込んだ。
母親の、俺に話したいこととはいったい何なのだろう? そして、渡したい物とは……
俺は様々な憶測に埋もれながら、ボンヤリとメモ用紙を眺めていた。
どうも、鋏屋でございます。
初めて読んでくださった方、ありがとうございます。
毎度読んでくださる方、大変感謝しております。
なかなか続きの投稿が出来ませんでした。今回はミッキーが現れなくなって一ヶ月の時間経過があります。俊介のあきらめの感情が少々あっさりしていたかもしれません。
次回俊介はいよいよミッキーの家に行くことになります。さて、俊介はミッキーに再会できるのでしょうか? さらに俊介と会わなくなった理由とは?
後3話ほどでラストとなりますが、今しばらくおつき合いくださいませ。
鋏屋でした。