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ユレは待ち合わせの駅前に向かう途中、周辺の霊が、突如現れた一点に引きつけられるように、微かに歪んでいくのを肌で感じた。
ユレは立ち止まり、一度だけ入ったことのある黒場の家とその隣のE公園のあたりの上空を凝視する。おもった通り悪魔をみつけた、黒場の部屋から離れるように、黒い羽を広げて空を走るような速さで進んでいた
黒場さんまさか……、そんな……
ユレは最悪の想定に動揺しながらも、悪魔を逃がす気はなかった。離れつつ対象に向かって、右手を大きく弧を描くように振りきる。すると、そこから放たれた紙片が鉄程の頑強さを得て、宙を切り裂くように進む。悪魔は自分に向かってくる攻撃に寸前で気づくも、紙片は直撃し、はじけた。
悪魔は大した損傷をこうむっていなかった。ちょっと、埃を落すように、体をふったあと、ため息まじりに、ユレを見る。
すこしの静寂の後。ばっと手をユレの方に掲げると、ユレに向かって周辺に漂っていた膨大な量の悪霊が怒涛の勢いで流れ込んだ。ユレは飲み込まれて身動きを封じられているさなか、悪魔がその場から飛び去ったのを見逃さなかった。
ユレは力強い流れに抗って、数珠を右手にもち、背丈いっぱいに持ち上げた。一瞬で取り囲んでいた悪霊の半分は滅ぼされ、残ったものは流れを失いほうほうに散った。
ユレは軽く息を吐き、こわばった表情で黒場の部屋の方に目を向けた。
ああ、僕は何をすればいいのか
とりあえず、ユレさんと合流するため家をでて、すぐに駆け出すと、マンションの入り口の前にユレさんが立っていた。彼女は僕にたいそう驚いたようで、目を開いて、固まっていた。
「ああ、ユレさん良かった」
僕が安堵の表情で彼女にちかよると、固まっていた彼女は僕とは対照的に、歯を強く噛んで、口に怒りの皺をよせ、目つきも恐ろしげなもの変わってゆく。
「黒場さん!」
声を震わしながら、そう僕の名前をよんで、僕の腕を強くつかんだ。彼女の腕はわなわなふるえていた。
僕までなにか落ち着かなくなっていった。部屋で悪魔と話していた時の動揺がぶり返してきた。
「ユレさん僕は……、」
彼女が僕を見上げる視線と僕が彼女に向ける視線が重なった。その時ふと、お互いに相手の感情を感じ合った。僕はユレさんの肩に手を置く、彼女は微かに僕の方に身を傾けた。そして、目を伏せ、息を落ち着かせるように呼吸を繰り返す。
「もう、大丈夫です。とにかく私の家にいきましょう。ここより安全です」
内田家
なんの特徴もない駅から徒歩5分の3LDKのマンションの室内に、僕はいた。霊能力者の住処といえども、見た目は平均的な一般家庭そのものだった。僕はリビングのキッチン前のテーブルの椅子にすわる。
右を向くと、立派な大型テレビとそのよこに、僕にはよくわからないが、これまた高そうなAV機器がそろっていた。その前に2台の大きなリクライニングチェアーがあり、間には飲み物を置ける小さなスペースがあった。僕はそこで兄妹で映画でもみるのだろうか、と想像した。
「ホームシアターみたいですね」
「ホームシアターってプロジェクターとかスクリーンとか使ったやつのことですよ、それと防音対策もして、大音量だせるようにしたやつ。こんなのじゃダメです」
「なるほどね。でもちょっと椅子がテレビに近くありませんか?」
「そうなんですよ。でも仕方ありません」
ユレさんは僕に熱い紅茶を入れてくれた。自分の分をもってそのリクライニングチェアーに座ってテレビの電源を付けた。ユレさんはニュース番組にチャンネルを合わせた。そのニュース番組はショッピングモールの火災について報道していた。
いまだに2人煙を吸い込み意識が戻っていない、という報道だった。最悪の場合は、そのまま一酸化炭素中毒で死んでしまうのだろう。僕はチェアに座っているユレさんの後姿を見た。心細げに見えた。
彼女はテレビを消した。それから椅子から動かなくなった。
「矢橋の方はどうなってるでしょうか?」
「わかりません」
ユレさんは小さな声で言う。
「そうですか」
僕は紅茶に口を付ける。そして静かに聞く。
「ユレさん大丈夫ですか」
部屋は静かなままだった。僕は立ち上がって彼女の正面に回り込む、ユレさんはゆっくり僕の方を見上げた。僕は身をかがめて、彼女と向き合う。
「大丈夫ですよ」
そういう彼女は顔が白く、体をこわばらせていた。僕は彼女の手を僕の両手にとって温めるように包んだ。
彼女は不思議そうにこっちを見る。
「僕はこれからどうなろうとユレさんと離れずに最後までいます」
彼女は無表情で押し黙る。
「前にユレさんも言ってたでしょう。それに、もうそうこと決めてしまいましたから、よろしくお願いします」
「私は悪魔に勝てないかもしれません……」
泣きそうな声だった。
「それでも、もう決めました」
バッと彼女は姿勢を崩して、椅子から転げ落ちるように、僕の方に身を寄せた。いきなりだったので、ユレさんを受け止めた後に、重心を崩して後ろにあわや倒れるところだったが、ぎりぎり持ちこたえた。
びっくりした。
僕の驚いた表情を、ユレさんは僕の胸に顔押しつけてしらんぷりした。
その後調子を取り戻したユレさんと今後の事を話し合い。とりあえず食事をしようという話になり、出前を取ることになった。
ユレさんは僕に近づいてきて、にこやかに言った。
「黒場さん好きなもの言ってください」
「いや、ユレさんの好きなものにすればいいよ。僕は特にないし」
「私は黒場さんの好きなものがいいんです」
これはさっさと即断してしまわないとストレス溜める、パターンだなと思った。
「OK。ピザ食べよう」
「わかりました」
僕は率先して、さっさと食べたいものを選び、2人分の注文をすませてしまう。受話器を置くと、ユレさんが言った。
「もしかして、お腹空いてるんですか?冷蔵庫にシュークリームあるんですけど有名な店の。食べませんか?」
「いやそういうわけじゃないけど」
「私と一緒に食べてくれませんか?冷蔵庫に残して死ぬのは心残りなので……」
「死ぬだなんて……」
「駄目ですか」
しゅん、とした態度で聞いてくる。
ユレさんは新しく紅茶を入れてくれた。キッチン前のテーブルに座り、シュークリームを二人でかぶりつきながら、今度のことを相談する。
「矢橋さんも既にやられてしまった。という仮定でも計画を考える必要があります」
「ああ、当然だな。そうなると、この家に飛んでくるんじゃないか」
「その場合はこの家で闘うことになりますね。でもそっちの方が都合がいいです。なので、私たちはここでじっと待ち受けます。矢橋さんがやられなくて、悪魔も生きてる場合もね」
「なにか策略があるんですね」
「そんなに、期待できるものでもないですけど」
「そうですか」
僕は思わず単調に無関心なふうに返事をしていた。するとユレさんが軽く驚いて言う。
「黒場さんはすごいな、本当に覚悟を決めたんですね」
彼女が甘えるように、また体を寄せてきた。
「最後まで一緒です。でも私がやられた後、逃げれる見込みがあるなら、逃げて望みをつないでくださいね」
それを聞いて、僕はユレさんの頭をなでなでしながら、はたっと思い出した。
「そういえば、弓削が最後にしたらしい、ラインの文章はどういうことなんだろう」
「弓削さんは最後に私たちに望みつないだんです。大丈夫、何を伝えたかったかおおよそ察しがついてます。もし私が勝てたら弓削さんのおかげです」
そういって、彼女はさらに大胆に体を密着させてきた。僕はさすがにこれはどうなのかと、ちょっと動揺する。
そのとき、親密な空気を破って、インターホンが鳴り響いた。僕はすこし驚いて、身体が震えた。ユレさんの方を見ると、なにやら頭を抱えて、悶絶した表情だった。
「一体何が……」
どうやら、びっくりして飛びのいて、後ろの壁に頭を打ったらしかった。僕はあっけにとられて、何て言っていいかわからなかった。
「ピザですよ。受け取ってください。私たちの最後の晩餐かもしれませんね、ふふ」
頭を押さえて涙目で、そんなことを言う彼女は、余裕があるのか無いのか、よく分からなかった。




