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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第六章
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 夏という季節が、ダニエルゼは好きだ。


 目を覚ましたときに、日差しが感じられるのも好きだし、汗をかきながら歩くのも好きだ。景色の全てがぎらつくような生命力に満ちていて、ダニエルゼに向かって何かを訴えかけてくるのも好きだった。

 風が熱を孕むのも好きだし、陰影の濃い雲も好きだった。深く青い空にのぼるような雲を眺めていると、何でもできるような気分になってくる。草がざわめくように身を揺らしているのを見ると、その中に分け入って喚きたくなってくる。


 そして何より、夜がいい。


 昼の熱気が和らいだ浅い夜がなによりだ。月がゆっくりと躊躇いがちにのぼっていく様子を何も考えずに見ていると、自分自身がまっさらになっていくような心持ちになる。

 髪を撫でていく風も、昼の熱気は綺麗に消え去って、どこか優しい。

 雲が薄くたなびいていれば、さらに言うことはない。


 小さな光が、幾筋か戯れながらダニエルゼに向かってくる。


『蛍や』


 手を伸ばすと、光は身じろぎをしながら天に広がっていく。 

 公女として与えられている部屋の裏手にある花壇の前に、ダニエルゼは立っていた。


 隣にはハルキがぼんやりと突っ立っていた。


『夏は夜。月のころはさらなり』


 ハルキは、ダニエルゼと同じように蛍に手を差し出しながら、目を細めた。

 いつものことだが、流れるようなニホン語をハルキは話す。


『なんやそれ』

『マクラノソウシ』

『小説か』

『まぁ、そんなもんかな』


 ふーん、とダニエルゼは聞き流した。どこで売っているか聞いても、恐らくハルキは答えない。

 ハルキは月夜の景色を眺めながら、どこか嬉しそうに、そして懐かしそうに目尻に皺を寄せた。


 だが、すぐにハルキは物思いに沈んだ。


 ハルキが、昼に起きたことを考えていることが、ダニエルゼには分かった。

 それはダニエルゼにとっても、具体的な数字を意識するという意味で衝撃的なことだった。



 ▼



 朝食の用意が遅かったのは、珍しいことだった。


 城の生活において、食事というのは行動の区切りとしての役目を果たしており、その時間がずれるというのは、非常に困る。

 城で生活する者だけではなく、働く者にも影響するのだ。


 ダニエルゼも、財務府に赴く時間は、食事をしてからと決めてあり、それが遅くなると仕事に遅刻することになる。

 ダニエルゼが遅刻しても、誰も文句はいわないだろうが、それはそれで少し心に引っかかるのだ。ハルキにこのことをいうと、きっと頬を振るわせて、イエナもそんな殊勝な気持ちになるのか、と笑うだろう。


 朝っぱらから、胸がもやもやとする。


「それで、どうして今朝は遅くなったのですか」


 朝食を部屋に運んだ若い女給仕に聴くと、びくりと体を震わせた。もやもやとした気持ちが、言葉の響きに含まれていたのかも知れない。

 ダニエルゼは再度、努めてゆっくりと言い直した。


「遅くなったのは、何か理由があったのですか」

「それが……」


 こちらを伺うような目を女給仕が向ける。

 その瞳に媚びを読み取り、ダニエルゼは息を吐いた。


「別に怒っているわけではありません」

「はい」


 それでも数瞬、女給仕は沈黙を続けてから、重そうに唇を動かした。


「今朝は、厨房が人手不足でして」

「欠員でも」

「1人」


 そう、とダニエルゼは頷いた。だが、腑に落ちない。


「城の厨房は何人で回しているのかしら」

「30人」


 ダニエルゼは唇を微かに曲げた。

 運ばれてきた朝食の白いパンを手に取ると、ちぎって口に含む。ゆっくりと噛んでから、飲み込んだ。

 そして疑問を口にした。


「30人のうち、1人が休んだら、朝食が遅くなる……。むしろ、30人いれば、1人ぐらい休んでいるのが、普通だと思うけど」


 ダニエルゼの問いかけに、女給仕は言葉を選びながら説明を始めた。


「城の厨房で働いてるのは、30人ですが、人手としては52人あります」


 ダニエルゼは言葉の意味を理解するのに、時間を要した。だが少し考えればその意味していることはひとつだ。


「8人が奴隷を連れてきているのです」


 その中の1人が休んだのだと、女給仕は説明した。そして、休んだ者は10人奴隷を所有しているのだという。


 10人もの奴隷を一人で所有しているというのは、あまり聞いたことがない。


「それは多いですね」


 ダニエルゼはパンにジャムを塗って、ゆっくりと口に入れた。


「はい。一番多く、奴隷を連れてきている者です」


 女給仕が頷いたところで、扉を叩く音がした。

 ハルキ達の部屋へと繋がる扉だ。


 ダニエルゼは返事をすぐにできなかった。


 口にパンを入れていたから、ではない。


 女給仕の話をハルキが聞くことによって、もめ事を起こす可能性を懸念したのだ。ただ心配しても、仕方がないことだ。

 心の中で首をひとつ振って、ついでにパンをしっかり飲み込んでから、ダニエルゼは返事をした。


「どうぞ。お入り下さい」

「失礼します」


 ダニエルゼの返事がニホン語ではなかったので、ハルキはダニエルゼが一人ではないことに気がついたようだ。

 普段なら、失礼します、などと殊勝なことは言わない。


「これは……ハルキ殿、おはようございます」


 扉を開けたハルキに対して、女給仕は堅い声でぎこちなく頭を下げた。


 ハルキのことが苦手なのだ。

 耳に罪人の痕を持つ男を警戒するのは、若い女としては当然だ。黒い髪と、黒い瞳というあまり見かけない容姿も、警戒する要因のひとつだろう。

 さらにその男が、ニホン語を流暢に話すとなれば、不審な目でみないほうがおかしい。

 ハルキがダニエルゼの代わって、ダニエルゼが公都に帰還した際の弁士として立ったときの演説は、城内や貴族社会では語りぐさになっている。


「おはようございます」


 そつのない笑みを浮かべて、ハルキも礼を返した。そして何食わない顔で、ダニエルゼに視線を向けた。


「おはようございます殿下。今朝は、ゆっくりされていますね。財務府へのご用の向きは、何時頃からですか」

「あら、ハルキ。私ものんびりしたい朝もあります」

「これは、失礼いたしました」


 それからハルキは、女給仕を見る。


「毎朝、ありがとうございます」


 ダニエルゼの従者であるハルキと、城の給仕とでは、ハルキのほうが身分的にはやや上になるが、ハルキは常に腰が低い。


「それでは、私はこれで」


 女給仕が引きつった笑みを顔に貼り付けたまま、何度か頭を下げて部屋を辞すると、ハルキは重い息を吐き出した。


『あそこまで露骨に避けられると、面倒くさいな』

『ハルキがもうちょっと隙があるとええんやけどな』

『隙があったほうがいいものなのか』

『そやよ』


 ダニエルゼの対人関係についてよく文句を言うくせに、ハルキ自身が人間関係の機微が全く分かっていない。

 ハルキはこめかみの辺りを何度か、人差し指でかいてから、指を立てる。


『さっきの話だけど、実際のところ今朝は遅くないか、そろそろでないと遅れるぞ』


 そしてハルキは時間にうるさい。少しの遅刻ぐらい目くじらを立てるようなことではないのだけれど。

 ダニエルゼは、女給仕から聞いた話をハルキに繰り返した。


 ハルキの顔からみるみるうちに、表情が抜け落ちていった。

 目の焦点が、ひとつのところに固まり動かなくなる。やがて、目を動かさないままで、口が動いた。


『イエナ』


 ハルキの声が低い。


『今日、財務府にいったときに調べてほしいことがある、できるか』


 休んだ者の氏名。休んだ者の給与。厨房に勤めるもので、休んだものと同じ程度の経験を持つ者の給与。


 簡単なことばかりだ。


『聞けば、教えてくれるよ』

『……そうか。まぁ、教えてくれるのはありがたいな。うん』


 ハルキは何かが舌に絡みついたような顔をしてから、言葉を続けた。


『私は厨房に顔を出してくる』


 ハルキは、休んでいる者の評判を聞いてくるという。


『そんなもんを、初めてあった人間に話すわけないんちゃう』

『それでも、イエナが聞くよりはマシだろう』


 シータ、ニコいずれもこういったことをするには向いていない。シータは綺麗すぎて、ニコは図体がでかすぎて、相手に無意識に警戒感を抱かせる。

 しかしハルキも耳のことがあるし、黒髪に黒目という印象深い容姿をしている。


『まあ、誰がやっても一緒かな』

『いや、ちょっとまて……インハルトさん達にもやってもらおう。いつまでも、四人で全てができるわけじゃない』


(……それはまぁ、そうなんやろう)


 4人で公爵領を統治できるわけではない。

 心情としてはそうしたいが、できないことはダニエルゼにもわかる。


『じゃあ昼御飯を食べにこの部屋に戻ってきたときに、状況の確認だ。いいな』


 ハルキの上から目線の言い方が気になったが、ダニエルゼが文句を言う前にハルキは部屋から出て行った。


 部屋に一人で残されたダニエルゼは、腹いせにデザートの果実に思い切りかぶりついた。




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