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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第五章
95/103

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 夜の空気が粘り気をもって、腕にからみついているようだった。


 ニコは、切っ先を正眼に構える。太刀を持つ手の平に、じっとりと汗をかいている。だがそれを服で拭うような余裕はない。


 ニコの正面には、旅装の男達。これが六人。

 躊躇いなく剣を持つ所作は、堂に入っている。一定の間隔をもちつつ、ニコに鋭い眼光を突き刺してくる。

 詰め所から出てきた衛兵は四人。

 革製の胸当てをつけており使い込まれた剣をもってはいるが、視線に微かに揺らぎが見られる。その息づかいに注意を向けると、呼吸が浅いのがわかる。


 どうする。

 こちらから、斬りかかることはできない。後ろにアグネリアがいるのだ。しかし多人数を相手にするときに、受けの姿勢ではらちがあかない。じりじりと包囲網を狭くされて、すり潰すように切りつけられると、対処のしようがない。


 そもそも十人の人間を同時に相手をして勝てる人間などいないのだ。

 剣術とは、腕の技であると同時に足の技でもある。剣を振るって、有効な打撃を与えるためには、一定の空間が必要であり、また切っ先がある程度加速していることが必須である。

 その前提となる空間的な優位性を確保するために、剣士は常に足を動かして、優位な場所に体を運ぶ必要がある。

 十人に勝つには、足をつかう必要がある。そして一瞬でもいいので、それぞれの男と1対1となる瞬間を作り出さなければならない。1対1とは、決闘のように真正面から切り結ぶことを差すのではない。ニコが太刀を振るう、その一瞬に他の誰にも邪魔をされない瞬間のことをいうのだ。

 その瞬間をつくるためには、足をつかって、空間の取り合いを制しなければならない。


 そう考えたときに、背中にアグネリアを庇うのは、重いハンデだ。


 明らかに旅装の男たちは、こういった場面に慣れていた。決して、無闇にニコに斬りかかるようなことはせずに、左側に二人が移動し始めた。

 包囲が完成したら、ニコにいくら剣の腕前があろうとどうしようもない。


 ニコは旅装の男達と衛兵を比べる。


 注意すべきなのは、やはり旅装の男達だ。


(ここはある程度、危険を冒しても……)


 ニコは衛兵を無視して、旅装の男に太刀を向けた。


 すると面白いように、衛兵が食いついてきた。

 一番近くにいた衛兵が、斬りかかってきたのだ。太刀だけは、旅装の男に向けていたが、意識はしっかりと衛兵に残していた。


 ニコはステップを踏んで躱し様に、太刀を振るう。体が旅装の男に向いていたために、体重がのっていなかった一撃だが、衛兵はなんとかという様子で受け止めた。


 ニコにとっては、様子見の一刀。

 それでも、対峙する男達の目が大きく見開かれた。


 間髪入れずに旅装の男のひとりの、横薙ぎの一撃がニコに迫った。ニコは太刀で受け流しながら、男の腹部に蹴りを入れる。避けきれなかった男が、鳩尾を抱えてよろめいた。


(浅い……か)


 男は額に玉のような汗を滲ませながらも、ニコの包囲を解くことはなかった。


 二人の男との立ち会いで、ニコはひとつ確信をえた。


(アグネリア公女殿下は安全だ)


 衛兵、旅装の男、いずれの剣の軌道もアグネリアを傷つけないように配慮がされていたのだ。

 一方で、男達にとってアグネリアは、どうしても必要な人間なのだ。それが一体何なのか、ニコにとって知ったことではない。アグネリアがニコを言葉で庇った以上、すくなくともアグネリアは男達と繋がってはいないのだ。


 それだけでニコには、十分だった。


 守るべき対象がいて、助けを求めているのであれば、命をかけて守るのみ。


 アグネリアの身の安全は、すでに確保出来ている。だがそれは、正確に表現するならば、身体的な安全は確保されているというべきものだ。男達が、ニコを襲う理由は、アグネリアを再度、拉致すること以外にない。

 つまりニコが倒れれば、アグネリアが誘拐されることが決定する。


 ニコは太刀を構えて、油断なく男達を観察する。


 包囲されないように、後じさっていく。アグネリアもそれに応じて、下がる。呼吸が酷く乱れているのが分かる。


「しっかりと守りなさい」


 アグネリアが命ずる。

 こんな状況なのに、ニコがアグネリアを守ることが当然であり、そしてニコがそのことに失敗する可能性があることを全く考えてもいない口ぶりだ。


(人に命令するのが当然という口ぶりだ)


 好きになれない。


 好きになれないが、女を誘拐する男達はそれ以上に好きになれない。


 ニコは否応も無く、太刀を握る手に力が入ってしまう。今、この瞬間の敗北は、ニコの命が失われるだけではない。

 命を投げ出すことで、アグネリアが助かるのであれば、ニコは今すぐ投げだしただろう。


「絶対に、助けます」


 それは目の前の男達を一掃することと同意義だ。

 アグネリアだけを、この場から逃走させるなんてことは、光の聖霊(ソーラ)の加護を得ても無理というものだ。ニコが体を張って、アグネリアを逃がそうとしても、すべての男を足止めすることはできない。ニコから離れたところで、アグネリアを拘束されてしまうと、手出しが出来なくなる。

 それならば、まだニコが全ての敵をたたき伏せるほうが、可能性があるというものだ。


 もっとも、いまの時間帯に光の聖霊(ソーラ)に祈るのは無駄だ。

 よほど旅装の男達があがめているのか、馬鹿にしているのかわからない土の聖霊(バスキュラ)の加護を願ったほうが、現実的だ。


 いま一番、助けを祈るのであれば、ハルキ達が最善だ。

 だが耳たぶを振るわせるのは、夜の風と、男達の冷たい息づかいばかりだ。


 都合がいいことを考えるのは自由だが、最善を願って、最悪を覚悟するべきだろう。

 すでに自分の命を賭ける準備は出来ている。


 ならばその賭けるものを重くして、対価をたんまりといただく必要がある。


 何事もタイミングが肝要なのだ。


「お前達、何者だ」


 無駄だと思いつつ、問いかける。

 無言が男達から返ってくる。


 不意に、雲が途切れた。

 月光が、まるで虹のように辺りを照らし出す。そして不気味に輝きを放ったのは、男達の剣。


 じりじりとニコの包囲網が狭くなってくる。


 その男達をあざ笑うかのように、突然強い風が、ニコの背後から男達に吹き付けた。周囲の土を巻き込むような激しい風に、刹那、男達は目を閉じた。


 ニコは、見逃さなかった。

 裂帛の気合いを、ニコは喉から振り絞った。男達が目を開けて、剣を握り直すよりも早く身踊らせると、左の男の肩をたすきに切り落とす。

 牛のような鈍いうめきとともに、男は崩れ落ちる。


 血が霧のように、周囲を染め上げた。その影に隠れるように、ニコは身を沈めると隣の男を切りつける。剣を握った手の先が、きらきらと月光を反射させながら、宙を舞う。


 続けざまに、二人の男が倒されて、明らかに怯んだ男達に、ニコは猶予を与えなかった。

 横に薙いだ一閃で、三人目の足を切り落とすと、四人目の腹を割いた。のたうつ男の腹を蹴り上げて、ニコが太刀をかち上げると五人目の首から血が噴き上がった。

 その間に、四人の男から切りつけられたが、すべてを太刀で防ぎきった。


「しっ」


 蛇のような息を吐くと、ニコは再度正眼に太刀を構え直した。

 ニコの目の前を倒された男の、土の聖霊(バスキュラ)の長衣が踊るように舞い降りてきた。それは真っ赤に染め上げられており、あたかも土の聖霊(バスキュラ)への供物のようだった。


 いただきます、と手を合わせてゆっくり箸をとる程度の時間だった。

 十人いた男達は、半分になっていた。


 呆れたような声が聞こえた。


「おまえ……何者だ」


 男達からではない、背後のアグネリアからだ。


Nico(ニコ)


 振り返らずにニコは答えた。

 短く完結な名前。ニコは自分の名前が大好きだ。そういえば、ハルキが言っていた。ニコの名前を女性形にすると、Nice(ニケ)になると。ハルキの故郷で言うところの、勝利の女神らしい。


「ニコ……だと……ソル公爵家に、これほどの騎士はいなかったはず……、なぜ、今まで無名なのだ」


 旅装の男が、うめくように呟いた。それに答えたのは、衛兵の男だ。


「お前、たしかダニエルゼ公女殿下と一緒にいた」


 そういわれてニコは、その男の顔を初めて一人の人間として観察した。それまでは、障害となる敵としか見ていなかったのだ。

 そうしてみると城門のところで、ダニエルゼと話していた兵士だった。たしか、名前をインハルトと言っただろうか。


(この男、城門の兵士長といっていなかったか)


 そのことを思い出したとき、ニコは足から駆け上がる寒気に、背中の体温が二度ほど下がったような気がした。


(ソーラス城の警備は一体どうなってるんだ)


 ニコはハルキ達が応援を連れてくれることに期待していたが、その応援がニコ自身のためになるのか確信が持てなかった。


 早く、けりをつけるべきだ。


 五人と正面から対峙して、ニコは隙をうかがう。

 さきの立ち会いは、突端となった風に助けられた。もしあの強風が、ニコの背後からではなく、男達の背後からニコに向かって吹き付けていたら、いまニコが立っていられたかわからない。


 何度も幸運が続くわけではない。


 しかし、風が吹かないのであれば、ニコ自身が風を起こせばよいのだ。

 ニコは足下に落ちている赤く染め上げられた長衣を手に取ると、男達に向かって投げつけた。


 血を吸って重くなった長衣が大きく広がったさまは、大輪の赤い花が咲くのに似ていた。


 男達の目が、一瞬そちらに吸い寄せられる。


 時間にすれば瞬きを一度できるかどうかの隙。その虚に乗じて、ニコは長衣の後をつけるようにして身を低くすると、獲物を狩る狼のように駆けだした。


 鋭い斬撃が、空気を切り裂いて迫る。ニコは耳でそれを聞き取りながら、刃先の下をくぐり抜けて、太刀を薙ぎ上げる。

 右側にいた男の腕が、肘から先が無くなる。

 続いて、左へと太刀を繰り出して、太ももを切りつける。絶叫が聞こえるが、ニコは動じない。


 斜めから切り下ろされた刃先が、眼前に迫る。

 太刀を切り返すのが間に合わない必殺の一撃だったが、ニコは空いていた手のひらで軌道を反らした。

 角度と呼吸さえ合えば、可能だ。


「なんだとっ」


 絶対の自信をもって放ったのだろう。男が絶望と感嘆が入り交じった呻き声を上げた。

 ニコはすぐに太刀を閃かせて、男の肩口を切り裂いた。


 短い苦痛の喘ぎとともに、男が剣を取り落とした。

 勢いを猛らせて、ニコは残りの男達に斬りかかると、それぞれの腕を切って無力化すると、思い切り蹴りを食らわせた。


 十人の男が、ニコの前で倒れ、足や腕を押さえて苦痛の叫びを上げていた。


 戦闘を継続できるものがいないことを注意深く確認してから、ニコは息を吐き出した。


 月が素知らぬ顔で、ニコ達を見下ろしていた。

 そこで何が起ころうとも、月は変わらず、人の営みを照らし、街を眺め、大地を見守り続ける。

 矮小な人々のいざこざとは、無縁の透徹した瞳があることに、ニコは安堵のため息を落とした。


「さてと」


 誰に聞かせるでもなく、ニコは呟いた。


 息はまだ荒く、肩で呼吸をしている。膝が小刻みに震えていたが、手のひらを太ももにおいて倒れそうになるのをこらえながら、なんとか背を伸ばした。

 血のりのついた太刀は、服の袖口でしっかり拭ってから、鞘に収める。


(早く油で手入れをしないと、錆びるな)


 そんなことを、ニコが考えたときだ。


 馬蹄の音が聞こえた。

 夜陰に響く遠慮のない騒音は、男達の耳にも届いたようだが、逃げようとするものはいなかった。


 その馬蹄の中にまぎれて、ニコを呼ぶ声が聞こえた。

 ハルキの声だ。

 その逼迫した声をきいて、ニコは苦笑する。


(ハルキも案外、心配性だ)


 ハルキが引き連れてきた兵士達が、どちらの味方をするのかわからない。


(二人なら、どうにでもなる)


 一人で十人はきついが、二人なら二十人でもなんとかなるだろう。背中を預けられるのはそれだけ大きい。


 男達を見張りながら、ニコがハルキの到着を待つことに決めたその時だ。


「ちょっと」


 不機嫌そうな声が、聞こえた。

 ニコが振り返ると、アグネリアが地面に座り込んでいた。


 戦うことに集中しすぎて、背後にいる人のことをすっかりニコは失念していたのだ。


 アグネリアは土埃を被ったのか、金色の髪は薄汚れて、泥で洗ったように顔が茶色にすすけていた。

 そのアグネリアが、ニコを睨み付けていた。


 ニコは、戸惑って言葉を失った。

 感謝の言葉をもらおうなどとは思っていなかったが、まさか助けたのに睨み付けられるとは考えていなかったのだ。


 ただニコとしては、アグネリアを助けられた、それだけで十分だった。守るべきものを守れたのだから、それで騎士の働きとしては満点なのだ。


 そうは言っても、睨まれているのは、気分がよくない。再び、男達の監視に、ニコが視線を戻した。


 すると、


「ちょっと」


 と、また声がした。


 ニコが振り返ると、今度は立ち上がったアグネリアが、ニコを睨み付けていた。


「そなた、私がいることを忘れていただろ」

「えっ」


 心の中を見透かされて、ニコが絶句する。

 忘れていない、というのも嘘をつくことになってしまう。ただ、正直にいうわけにもいかない。ニコがなんと答えたものか、口の中で舌を転がしていると、アグネリアがおかしそうに吹き出した。


「まあ……よいわ」


 アグネリアが髪の埃を払いながら、ニコに一歩近づいた。その距離の近さに、ニコはどきりとして、心の中で半歩下がる。


 そしてアグネリアが、ニコの顔を覗き込んだ。アグネリアの顔に、何のてらいもない素のままの笑顔が広がる。


「騎士は、淑女の手をとって助け上げるものよ。覚えておきなさいな」


 小さな子供に言い聞かせるような口調で話すアグネリアの顔から、ニコは目を逸らすことができなかった。



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