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アグネリアがさらわれた。
『姉上が……』
さらわれたのか、と反射的に聞き返えそうしたところに、四騎の騎馬が血相を変えてダニエルゼ達の脇を通り過ぎていく。
拍車を掛けているようだったが、それほど速度が出ているようには見えなかった。
『初動が遅い』
呆れたようにハルキが呟いた。
手入れが行き届いていない馬は、いざという時に役に立たない。あれでは、馬車と同じぐらいしか速度が出ていないに違いない。
つまりは追いつけない。
日頃の馬の世話の手を抜いたという怠慢が、いましっぺ返しされて戻ってきているのだ。
あのような馬に乗るぐらいであれば、走ったほうが早い。それを騎士であるという見栄のために、わざわざ騎乗して追っているのだ。
(本末転倒だ)
唾を地面に吐き付けたくなった。
『ニコは追いつけたやろか』
『一頭立ての馬車だから、ニコなら振り切られる心配はない。しかもこの視界の悪さだ。馬車もそれほど速度は出せない。観察しながら、余裕をもって追尾しているだろ』
馬車の速度は全力でも、たかが知れている。健脚の男であれば、日が出ている間ずっと後を付けて走ることができるだろう。
もちろん、それは追う側が何の荷物も持っていない場合に限る、と注意書きが付く。
馬車の利点は、速度ではなく荷物を大量に運べるところにあるのだ。
『今から、ニコを追いかけたら……』
追いつけるだろうか、と続けようとしたが、ハルキからの刺さるような視線を受けてダニエルゼは押し黙った。
『そやけど、ニコにだけ危険なことを押しつける訳にもいかんやろ』
ハルキは首をゆっくりと横に振った。
『無駄に危険なことをさせる必要はないが、これは避けられない危険……いや、選択しても良い危険だ』
そこでハルキは、力強い笑みを作った。
『ニコを信じろ』
そう言われてしまっては、ダニエルゼに反論は無い。
誓いの仲間を信じないで、何を信じるのか。
ただ、心配ではあった。
『いますぐ、周りに助けを求めたらどうやろ』
周囲には民家が建ち並んでいるのだ。
『それは駄目だ。アグネリアの身に危険が及ぶ可能性がある。それに民に助けを求めて、何をさせるつもりだ』
『それは……』
ダニエルゼは言いよどんだ。はっきりと言ってしまえば、アグネリアの安全よりも、ニコの危険を排除したい。
だがそれでは、ニコが身を挺して追っている意味がなくなってしまう。
(祈ることしかできやん……のか。いや自分にできることするだけや)
ダニエルゼは夜の星を見上げて、手を握る。
『よっし、じゃあまずは兵士達に事態を報告せな』
ダニエルゼの言葉を合図に、三人は城のほうに向かって走り出した。一番近い兵士の詰め所がある方角だ。
『兵士……兵士かっ。くそっ』
走りながらハルキが突然、大きな声で叫んだかと思うと、立ち止まった。
夜気を振るわすような声に、シータが珍しくハルキを咎めるような視線を送った。
『ハルキ様。どうかなされましたか』
『この城には城門はいくつあるんだ』
シータの言葉に答えずに、ハルキが食いつくように、ダニエルゼを睨んできた。
『ビエントに行ってから変わっていなければ、四つだ』
『四つか……くそっ。やはり詰め所に行くしか無いか。……間に合うのか』
ハルキは忌々しそうに呟くと、先ほど以上の速度で走り出した。
『早く……早くっ』
ハルキは息を切らしながら走った。その隣でダニエルゼはハルキ以上に、息が切れていた。
ドレスなのだ。ダニエルゼは。
走ることなんて、考えられていない装いだ。
一歩ごとに、スカートの裾が絡まって邪魔をしてくる。
『くそっ』
スカートをつかんで、腰の辺りで結び上げた。足が太ももまで露わになるが、構っていられない。
一秒でも、早く兵士に事情を説明することが、ニコの安全に繋がるかも知れない。そう思うと、ダニエルゼができることは、とにかく走ることだ。
ダニエルゼが止まってしまうと、護衛であるハルキ達も立ち止まってしまう。それは結局、ニコの身が危険にさらされる時間が長くなってしまう。
(走れ、もっと早く)
自分自身に言い聞かせながら、ダニエルゼは夜道を走った。
◆
ニコは夜道を走っていた。
馬車が視界から切れるか切れ無いか、程度の距離を保って後を追っていた。馬車の速度は、ダニエルゼ達と別れたときと比べるとかなり遅くなっている。
(これなら見失うということはないだろう)
ダニエルゼは見ていなかったようだが、アグネリアは猿ぐつわをされて二人の男に挟まれていた。抵抗していなかったが、ニコ達を見たときに微かにすがるような色合いに瞳が染まった。
(どうすればいい)
問題は二つあった。
ひとつは、どのタイミングで仕掛けるかだ。正直なところ、今すぐ襲撃することも可能だ。追いついて、馭者を切り捨ててしまえば、馬車は制御を失う。
ただそうなると、アグネリアの安全を確保できない。
(すぐに馬を制御すればいいのだが……)
これは、ニコに暴れ馬を御する技術がないため、却下するしかない。
もうひとつは、ニコが助けたときに、アグネリアが素直にいうことを聞いてくれるのか、という問題だ。なにしろ、ニコはアグネリアの前で、アグネリアの部下達に刃を向けているのだ。
これはもう、助けてみるまで分からない。
アグネリア自身をさらったものたちよりも、ニコが危険視されていないことを祈るしかない。
ハルキのような話術があればどうにかできるだろうが、これも運任せだ。
(本当にないないづくしだな、僕は)
情けなくなってくるが、いまは気づかれない距離を保ちながら、馬車を見失わないことが第一だ。
星が落ちそうな夜。
馬車が土くれを飛ばす音が、からからと遠くの街並みから届いてくる。ニコは息を殺しながらその後を追った。
馬車は城壁に沿って、進んでいる。ここは城壁内であり、外に出るためには閉まっている城門を破るか、或いは明日の朝まで潜んで日中に何食わぬ顔で出て行くしかない。
(城門を破るというのは、現実的ではない。とすると、朝までどこかで潜んでいるというのが正解だろう)
そこでニコの胸にえも言われぬ不安がわき上がった。だがそれは形をなすことなく、すぐに消えてしまった。
(潜むということは、建物の中に隠れるということ)
いずれ馬車が止まったときに、どこの建物にアグネリアと共に身を隠すのか、それをはっきりと特定することがニコの仕事になりそうだった。