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口の中が乾いている、そのことに気づいてニコは自嘲する。
(案外、あがり症なのかも知れない)
向かい合う若い青年が、ヘルト家の次男だと思うと、微かな肩のこわばりと脇腹の辺りに汗が滲むのが分かった。
考えてみると、今まで貴族という雲上人と面と向かって、会話をしたことがなかった。
アバーテ伯爵とは、馬車の窓越しに指示されることはあったが、会話をしていたのは、主にダニエルゼとハルキだ。
ダニエルゼは、あんな風だから数に入らないし、ゲオルグも正確には爵位を持っているようだが、貴族というよりもニコにとっては師匠としての位置づけが強い。
敢えていうなら、さきほど睨み合ったアグネリアが初めてということになるが、剣を交えた状況では貴族も何もあったものではない。
こうして、ローランドを眺めていると、貴族という類いの人間が、容姿というステータスにかなり気を遣っているのが分かる。
まず着衣が違う。青を基調としたイブニングコートは、襟元だけがオレンジのラインが走るシンプルなものだが、その光沢のある材質は今までニコが見たことの無いものだ。
手触りがとても良さそうなのに、毛羽立っていない。
髪は短くもなく、長くもなく、あまり主張をしていない。逆に言えば、非常に整えられており、かなり頻繁に髪にハサミを入れているのだろう。
食べる時も落ち着いたもので、がっつくようなところは微塵もない。また料理を味わっている風で、食べ物を口に運ぶ都度しっかりと噛みしめている。
箸の使い方も堂に入ったもので、ニコが今まで一番箸の使い方がうまいと思ったハルキにも劣らない。
毎日の食事を箸で取っているのではないか、と思わせた。やはり箸が使えないと、こういう場では映えない。
(まさに貴族という感じだ)
ほれぼれするほど、隙が無かった。
やはりというか、当然、異性にももてるようで、三人の女性が詰めかけてきて、ローランドの隣のポジションの奪いあいを始めた。
ローランドは、それを気にする風もなく、食事を進めている。
「ところで、君の名前はなんていうんだい」
「Nicoといいます」
「ニコか、珍しい名前だね。どこの出身なんだい」
「わかりません」
ローランドが、食べる手を止めた。
「どこで生まれたか、わからないのかい」
奴隷なので、どこで生まれたかわからないのだ。
正直に言うのはやめたほうが良い。
その程度のことは分かるが、ではどう答えるのがいいのか。嘘は言いたくない。
「短い間ですが、ヘルト領のヘルトバッハにおりました」
「へえぇ」
ローランドが、こちらに身を乗り出してきた。
「ヘルトバッハにいたことがあるのか」
「はい」
うまくごまかせた、というよりも、ローランドが話にのってくれたというのが正確だろう。
「都の真ん中を、大きな川が流れているのを覚えています」
「ヘルト川だね。我が侯爵領のシンボルでもあるし、名前の由来でもあり、あそこに都市ができた理由でもあるんだ」
ローランドがひとしきりヘルトバッハの都市の歴史から、見所などを話す。その話を盛り上げたのは、ニコではなく、ローランドの脇を固めた女性達だ。
すごい、そうなんですか、知らなかった、この三つの言葉を駆使して、場を持たせるのだから、大した会話術だ。その間、ローランドも笑顔を崩すことがなかった。
ローランドは女性たちの前で、シータのことを蒸し返すようなことはせずに、今は公都で流行っている服装の話に花が咲いている。
たわいのないと言えば、怒られそうだが、ニコは話の内容の大半がよく分からなかった。
ひとしきり女性達と会話をすると、ローランドはグラスを上げて見せた。
「ごめん。ちょっとこちらと、話したいことがあるんだ」
ニコに視線をなげて、ローランドが言うと、女性達は察してサァとテーブルから離れていった。
ローランドもそうだが、女性達もスマートで、これが社交界のやり取りかと思うと、ニコには到底真似できそうになかった。
(できれば、ハルキがうまくこなしてほしい)
ダニエルゼは、ローランドのように振る舞うには気が短いし、シータはハルキのプラスになることであれば我慢してやるだろうが、我慢していることが顔にはっきりとでるだろう。
かといって、ニコでは山だしであることがバレバレだろう。
「お見それしました」
ハルキがローランドに向かって、頭を軽く下げて見せた。
ローランドは笑顔を見せたまま、かすかに口元の笑みを深くした。
「これも私の仕事のうちですから」
嫌みのない口調でそう言うローランドの隣に、また一人女性が姿を見せた。
「何の話をしているんですか」
やってきたのは、向日葵色のドレスを着こなしたダニエルゼだ。
ローランドは、前触れなく現れたダニエルゼを見て、体を強ばらせた。
「こ、これは、公女殿下」
上ずった声あげて、ローランドは短い間で瞬きを繰り返した。
ちょうど、口の中に食べ物を入れていたようで、それを慌てて飲み込もうとして目を白黒させた。
どうにか喉の食べ物を嚥下してから、ローランドは深々とお辞儀をする。
「失態をお目に掛けました。殿下、いつ公都にお戻りになったのですか」
「昨日です」
ローランドはどうにか、落ち着きを取り戻したようで、胸に手を当ててグラスをゆっくりと傾けた。
「殿下がどうして、従者のテーブルなどに」
「いえ、この者たちが」
と、ダニエルゼがニコとハルキに視線を投げる。
「私の従者なので」
その言葉に、ローランドは眉を大きく上げた。
いつも公爵家の財務長官を、読んでいただきありがとうございます。
今回の話、実は最初はこんな展開でした。
・ローランドについていた女たちが、ニコとハルキを馬鹿にする。
・それをローランドがたしなめるが、ますます女たちは増長してニコとハルキを見下す。
・そこにダニエルゼが登場する。
・従者であることを告げると、女たちがしっぽを巻いて逃げ出す。
それを完全に書き換えました。
スカッとする展開ですが、どうも嘘くさくて……。
何が言いたいのか、というと、
「短くて、すみませんっ」
でした。