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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第一章
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 太陽はまだ高い。

 タンポポが一面に咲く野原を、春樹は小走りで抜ける。森の中に吸い込まれる小道は、まるで不思議の国へと続く、トンネルのように見える。

 針葉樹が天に屹立する森に春樹は足を踏み入れる。その途端、肌に当たる空気がひんやりとしたものに様変わりする。そこで、春樹ははっきりとした日本との違いに気づいた。


 空気の味が違うのだ。


 日本では、影に入っても周囲に空気があることを無意識のうちに感じ取っている。それはいうなれば、どんな場面、どんなところでも空気そのものに特徴があって、いわば味がしている。だがここでは、空気そのものが淡泊で、薄味だ。森の中なのに、森の匂いがしない。きっと、日本の濃い空気に慣れてしまって、ここの薄い空気を感じ取る感覚が育っていないのだ。

 春樹は、ここが日本では無いことを実感をもって確信した。


 植生も見慣れたものとは違う。

 針葉樹が大半で、杉のような真っ直ぐな樹木が多い。樹皮は、日本の松のようなのに背丈が軽く十メートルは超えているような樹木もある。見上げるような松、というものを春樹ははじめてみた。松ぼっくりがあるから、松の仲間なのは間違いないのだろうが、春樹は植物園でも見たことのない木だ。

 道そのものは歩きやすく、獣道ではなく、人が日常的に使用しているもののように思える。


老人の背中をとらえることは難しくはなかった。

 だが、その背中に声を掛けるのは躊躇われた。拒絶しているわけではないのだろうが、無言で歩く老人の後ろ姿は、春樹にも寡黙を要求しているようだった。

 春樹はつかず離れずに、老人についていくことにする。


 道は、一時的に登ることはあったが、おおむね緩やかな下りだった。教会のあった野原が、山の中腹に開いた高原のような場所だったから、下るということは山裾に向かっているということだろう、と見当がついた。


 それにしても、結局、ここはどこなんだろう。


 ただ歩いている時間は、春樹に思索を促してくる。

 松のおばけのように、背の高い木が日本にないことは分かるが、そのほかの植物が日本にあるものなのか、どうなのか、春樹には判断ができない。植物学者ではないのだ。なんとなく、あまり見覚えがない、と思う程度だ。ただ逆に言えば、しゃべる植物や、襲い掛かってくる植物がいるわけではもない。ものを言わずに、ただそこにある、常識的な植物だ。

 春樹は、子供の頃、植物は痛がるってことがないのか、真面目に考えたことがある。

 言葉がしゃべれず、動けないだけで、本当は植物も喜んだり、嫌がったりしているのではないか、と考えたことがあった。

 それに対する回答は、いまだ春樹の中にはない。

 そんな世界に対する根源的な疑問を、いつの間にか春樹は問いかけることが無くなっていた。考えても仕方がないと思うようになっていた。そんなことを考えている暇があったら、土地の路線価方式の計算問題を解いているほうがマシだ、という考えだ。

 それが大人になる、ということであれば、寂しいことのような気がした。


 ここはどこか。

 そんな問いを、二十五にもなって真剣に問いかける。春樹はそのことを思うと、今いる自分の状況からくる不安が、少しだけ軽くなるような気がした。


 老人は歩みを緩めることはなく、黙々と道を進んでいく。年齢の割には、健脚だ。春樹は、社会人になっても週に一回のペースでテニスクラブでテニスの練習をしている。同世代の中ではそこそこ体力があるほうだろう。その春樹より、老人は体力があるようだった。気を抜くと春樹がおいていかれそうになる。


 教会を出てから、三十分程度歩いただろうか。

 道の両側に聳えるように立っていた木々がまばらになってきた。その先に、川が見えた。

 耳を澄ますと、水が流れる音も聞こえた。涼やかに歌うような、軽快な水の流れだ。鳥も鳴いていた。雀のような小さく断ち切るような鳴き方。しかし雀より少し甲高く、雀の鳴き声にハワイアン風味を掛け合わせたような声だ。どこで鳴いているのか、樹木の枝を見てみても、見当たらない。


 鳥の姿は見えないが、声だけは聞こえてくる。

 さっきまで声はまったく聞こえてなかったが、もしかしたら、ずっと鳴いていたのかも知れない。


 ふと前を見ると、老人の背中がちょっと離れてしまっていた。

 追いつこうと、春樹が足を速める。その時だった。


 突然、視界が広がった。

 最初に、春樹を襲ったのは、風だった。森から抜けた丘は、強い、とても強い風が吹いていた。風が耳をなぶる音が、はっきりと聞こえた。シャツの襟が、頬を叩いた。背中が空気をはらんで膨らんでいる。


 そして、眼下の景色に息を呑んだ。

 真っ青な、湖があった。周囲は天を突くような峻険な山に囲まれており、いくつかの川が流れ込んでいる。湖面は日の光を反射させて、瑞々しく輝いていた。風を受けて、海のように小さな波が走っている。翼を大きく広げて鳥が二匹、空を滑っていく。綿のような雲が天高く連なっている。

 映画の中に、迷いこんだような風景だ。

 湖畔には、町があった。オレンジ色に統一された屋根が、語らいあうように楽しげに並んでいる。見上げると、さきほどまでいた教会が見えた。それはあたかもこの町を見守る母親のようだった。


 ああ、と春樹は思った。

 日本は遠くなりにけり。

 そしてこの場所での生活が始まるのだ。


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