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「みなさま。今宵はアグネリア・ソルが主催します夜宴にご出席賜りまして、真にありがとうございます。本格的な夏を迎えようとする今宵、皆様にわずかばかりの休息を供しますとともに、泡沫の夢をお目にかけられるよう、屋敷のものともども勤しみますれば、どうかごゆるりとお楽しみくださいませ」
再び、アグネリアが深く頭を下げる。
それを合図に、ゆったりとした旋律が部屋の中からあふれ出した。楽団が、奏でる旋律は、耳ざわりにならない大きさで、軽妙に部屋を満たす。
部屋の要所に立った黒服が、流れるような所作で客達を中に誘導する。
貴族達は部屋の奥。上座のテーブルについており、黒い服を着た給仕が手慣れた所作で皿を並べていく。
一方で、下座にあたる従者達のスペースは、立食形式となっていた。
テーブルの上に並んだ料理は、冷たいものから温かいものまで、色とりどりさまざまなものが並んでいる。
すでに上座の貴族達は、料理を口に運んでいる。そうであれば、従者達もテーブルに並んだ料理に手を付けて良いはずだ。
このようなパーティに慣れている従者達は、敢えてがっつくような真似はしない。一方で、ニコのようにこの場に慣れていないものからすると、本当に食べて良いのか、という思いが先にたってしまう。
なにしろ、今までニコが見たことも、ましてや食べたことのない料理が並んでいるのだ。
唾ばかりが、口の中に溜まってくる。
そんな中、料理に真っ先に手を付けたのは、誰あろうシータだった。
比較的幼い少女という自らの立ち位置を把握しているシータは、メインテーブルに近づくと、ウサギの煮込みの皿を手に取り遠慮無く口の中に料理を掻き込み始めた。
その様子をみた従者達は、目配せをする時間ももどかしく近くのテーブルの料理に箸をつけ始めた。
さすがに箸の扱いも堂に入ったもので、箸を持てないものはいないようだった。
ニコも、食べ負けないように目の前のテーブルにある皿を手に取る。それは鴨のあぶり焼きだった。切られた肉は、周囲を綺麗に焼かれているが、中はまだ赤い。野菜と一緒に盛られた肉を箸で口の中に運んだ。
すると、舌の上で、香草の香りが広がり、歯でかみ合わせるとコリコリとした食感とともに、肉の間からうまみがにじみ出てくる。
(こんな美味しいものが、あるのか)
あまりの旨さにニコは衝撃を受けた。
隣を見ると、ハルキが皿を片手に持って、次々と鴨を平らげていく。
「美味しいな」
ニコが話しかけると、ハルキが口の中に鴨を入れたままだったためか、首だけを縦に振った。
「ハルキががっつくなんて、珍しいね。どんなものを食べていても、そんなに美味しそうに食べている記憶がないけど」
「それは、まあ、昔に食べていたものと比べるとね」
ハルキの過去は本当に謎だ。
こんな水準の食事でなければ喜べないなんて、どんな生活をしていたのだろうか。
隣のテーブルでは、シータが手が止まらないという様子で、料理をすごいスピードでたいらげている。箸で肉をつまむのも待ちきれないように、口が開けられてはその中に肉が消えていく。
しっかりと噛んでいるのか、心配になるくらいだ。
シータの足先は小刻みに揺れていてリズムを刻んでいる。そして、皿の中の料理が空になるたびに、満足そうな吐息を吐いていた。
シータを幾人かの男たちが取り巻き始めていたが、あまりの食事の勢いに声を掛けるタイミングを計り損ねているようだった。
「彼女は、君の知り合いかい?」
テーブルの向かいにいる男が、話しかけてきた。ニコは少し身構えて、相手を観察した。
年の頃は、ニコと同輩。すなわち十代の後半、二十歳前といったところだろう。箸は綺麗に持っており、ぎこちなさは無い。清潔感のある青い上下の服装で、その動作は落ち着いている。
顔はまっすぐにニコを捉えており、髪は耳の高さで綺麗に切りそろえられていた。男は優雅にコップをあおると、軽く掲げて見せた。
従者の中でも、間違いなく貴族だと思われる出で立ちと振る舞い。
ニコは皿を持っている手に力を込めながら、シータのほうを見てから、男の問いに答えた。
「そうです」
「ふーん。彼女、綺麗だね」
ストレートな物言いだった。シータを評するのに、こんな風に真っ直ぐな表現を使う人は初めてかも知れない。
(たしかにシータは、綺麗だ)
ニコは離れたテーブルのシータを伺う。
たしかに綺麗だ。
綺麗なのだが、今の様子を見る限り、シータはただの食い意地の張った女の子にしか見えない。
美人は見慣れるというが、つまるところ、ニコにとっては、家族という意識が先に立つ。
「ちょっと、紹介してくれないか」
(なるほど。正面からではなく、こういう搦め手でくるのか)
その男の態度に、舌打ちが聞こえた。ハルキだ。
いつの間にか、鴨を頬張るのやめて、ニコの隣で目の前の男を睨み付けていた。
「知らない男を紹介はできないだろ」
固い声。もちろんハルキからで、ほんど詰問のような口調だ。
「そちらも、彼女のお知り合いで」
おおらかな表情で、ハルキを見た男は眉を少し上げてみせる。その仕草が気にくわないのか、ハルキは明らかに体を固くして、唇を尖らせている。
「お二人とも」
男は、端正な顔を上げると、口の端に柔らかな笑みを浮かべて見せた。
「私は、ヘルト家が次男、ローランド。ローランド・ヘルトと申します。以後、お見知りおきください」
(ヘルト家……だって……)
口から驚きの声が漏れそうなるのを、ニコは意志の力で押しとどめると、ハルキに視線を送った。
ハルキも同じ心境だったようで、両眉を上げて息を呑んでいた。そして目を白黒させたあとで、口を開きかけて、それからまた押し黙った。
こういう時、ニコはハルキの心の中が手に取るように分かる。
理性としてはヘルト家との仲は良好にしたいが、それでもシータとの間を取り持つようなことは感情的にしたくないのだ。
とはいえ結果的に、ハルキは理性に従うだろう。ハルキがそういう人間であることを、ニコは一年に及ぶ付き合いで知っていた。
ダニエルゼが言うところの、ハルキのつまらないところだろうが、これからダニエルゼを公爵に押し上げるには、ハルキの冷静な判断力は大きな力になる。
(それにしても、ヘルト家とは)
貴族と親交を結ぶために参加した夜会とはいえ、いきなり大物とぶち当たったものだ。
ニコは、暗記した貴族達の情報を思い出す。
ヘルト家。
それはソル公爵領内に三家しかいない侯爵家のひとつだ。
代々、武威目覚ましい当主をいただき、将軍を輩出する家系であり、初代の大イエナを支えた戦士の血筋だという。
戦士には、二人の息子がおり、兄はバスキ公爵家の初代公爵となり、弟は死ぬまでイエナを支えてソル公爵領内で、侯爵位を授かった。
現在の当主、ジモン・ヘルトもソル公爵家の将軍位にある。
つまりローランドと名乗った男は、公爵領内の貴族の中でも、最も歴史があり現在においてもその威風が衰えていないヘルト家に連なるものだと言っているのだ。
ニコは一度手のひらの汗を握りしめてから、ローランドを見返した。口の中にいれた料理からは、今は何の味も感じられなかった。