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ダニエルゼを見送ってから、クリストは息を吐いた。
「ダニエルゼのことどう思う。アバーテ辺りの差し金か」
「いまのところ、判断いたしかねますな」
クリストは胸を刺す痛みに耐えながら、唇を開く。
あまり長くはない、そう自覚していた。
「ビエントで一体何があったのか」
ダニエルゼをビエントの光の聖霊の教会に送ったのは、クリストだ。
政争を毛嫌いしていたダニエルゼがこれ以上、公都に留まることが良いように思えなかったのだ。それにルークの件があった。公都がこれから、混乱するのは分かっていた。その混乱はルークがいなくなった今も残っている。
ダニエルゼはビエントに閉じこもることなく、結果的にクリストが呼ぶ前に自ら戻ってきた。これはクリストには予想外の出来事だった。
「ビエントで何が起きたのかは、わかりませんが。お嬢様の変化は、私には好ましいものに思えました。人として芯のようなものができておりました。きっと、良き出会いがあったのかと」
ヨゼフが嬉しそうに髭を震わせていた。
「お前もそう思ったか」
クリストが記憶しているダニエルゼは、どこか小動物のようだった。周りの視線にびくびくして、いつも伏し目がちで、目があうといつも臆病そうに目を逸らした。
それがどうだ。
公爵である自分に堂々と意見を伝えて、結果的に要望を通したのだ。
「とはいえ、それはそれだ。あやつの仕事ぶりは、しっかりと私に報告いたせ」
「承知しました」
恭しく腰を折るヨゼフに、クリストは顔だけを向けて苦笑交じりに話を続けた。
「それにしても……」
そこでクリストは、言葉を止める。そしてさっきまでこの部屋にいたダニエルゼの顔を思い浮かべた。
(……私も娘に抱きかかえられて喜ぶような年になったということか)
さすがに口に出すのを躊躇い、クリストは咳きをひとつした。
「クリスト様はお若い時から、子煩悩な方でございました」
まるでこちらの心が読めるかのように、ヨゼフが目を細めた。
「そうでもなかろう。だが、まあ、親の欲目を差し引いてもダニエルゼはなかなかの美人ではないか」
「まったく、左様で。このまま公都に戻られるのでしたら、諸侯から結婚の申し出がかなりありそうですな」
「何っ、まだ早い」
クリストの声が裏返った。
「冗談でございます」
ヨゼフの澄ました声に、クリストはわざとらしく喉を鳴らした。
「……悪い冗談だ」
クリストはベッドの上で、ゆっくりと息を吐いた。
久しぶりに長くしゃべった。背中にじっとりと汗をかいていた。それでも、決して嫌な汗のかき方ではなかった。
「ヨゼフ。ダニエルゼが公都に戻ったことは、やはり公式な場ではっきりさせないといけないであろう」
「同感です」
「ニホン語での挨拶が原則だが、できるであろうか。あやつのニホン語はおかしいからな」
「もし本人が難しいようであれば、公爵家付きの弁士に代役を任せればよろしいでしょう」
ヨゼフの言葉は尤もだった。
(存外、私は過保護だ)
クリストは、微かな胸の痛みを感じながら、視線をまっすぐにする。
天蓋に描かれたソル公爵家の神祖であるイエナが、クリストに向けてほほえみを落としている。
長い髪に、混じりけのない笑み。
赤い着物をぴしりと着こなした妙齢の女性。髪を結い上げて、手には扇子。視線はやや下に向けられていて、口には誰に向けたものか小粋な笑みが作られている。背景は、どこかの書斎なのか、あざやかな色彩の背表紙が並んだ本棚がある。
絵のモデルとなったときは、五十歳を越えていたというから少々脚色も入っているはずだ。どう高く見積もっても、三十に届いているように見えないのだ。
一方で、五聖霊すべての加護を受けていたイエナは、老いとは無縁だったとも言われているから、五十過ぎでこの風貌だった可能性もある。
公爵となったものは、毎夜このイエナに向かって語りかける。それは懺悔であり、告解であり、相談であり、自慢であり、ときに愚痴であった。
いまでも、クリストは寝る前のつかの間、イエナと話すのが日課だ。
(偉大なるイエナよ。まだ経験の浅い末娘をどうかその庇護に加えたまえ。願わくば、その英知と、胆力と、慈愛でもって、娘をお守りください)
天蓋のイエナの目尻に微かな笑みが浮かんだ、そんな気がした。
◆
ダニエルゼが頬にわずかな疲労を滲ませて、部屋の隅にある椅子に座った。
口から出たのは、日本語。
四人で話すときは、常に日本語とする一種の暗黙のルールができていた。
『なんやどっと疲れが出てきた。やっぱ、馬車の移動は疲れるなぁ。二週間ばかり、乗りっぱなしやったからな』
部屋に備えてあった団扇でぱたぱたと自分自身の顔を扇ぎながら、ダニエルゼがぐるりと首を回した。
『どこの親父だ』
シータが呟くと、ダニエルゼは団扇の動きを加速させた。
『いくらでも言うたって。暑いもんは暑いんやから』
ダニエルゼのぼやきを聞き流して、春樹は頭をかいた。風呂に何日も入らないのは慣れてきていたとはいえ、そろそろ濡れたタオルで体を拭くぐらいのことはしたい。
ダニエルゼが言うとおり、春樹自身も体の足先に溜まった疲れを感じていた。
すっかり日は暮れていた。
部屋の隅に置かれた蝋燭が長い影を揺らしていた。開け放たれた窓からは、夜の空気が涼気を伴って滑り込んできていた。
ここはソーラス城の来賓用の部屋の一室。
壁に飾られた絵画の額縁の作りからして、あまり格の高くない客が泊まる部屋のようだ。
部屋に泊まることになっているのは、春樹、ニコ、シータの三人。ダニエルゼの従者という立場から、ダニエルゼの部屋の隣に部屋を与えられた。廊下を介さずに、部屋を行き来できるように二つの部屋は繋がっていた。
アバーテ伯爵は、少し離れた部屋を割り当てられている。
伯爵も先ほどまでは、この部屋に居り、ダニエルゼからの説明を聞いていた。
公爵家からの支援の話を、ダニエルゼが切り出すことができなかったという辺りでは、肩を落としていた。
これにはダニエルゼも悪いと思ったらしく、しおらしく謝罪の言葉を重ねていた。
春樹はアバーテ伯爵の後ろ盾は、得るべきだと考えていたため、別の機会を見てダニエルゼから公爵にアバーテ領への援助を頼むように話しておいた。
(案外、すんなり援助してくれるのではないか)
ダニエルゼとクリスト公爵の仲は、思った以上に良好なように思えた。
ダニエルゼが、ノイマールの帳簿を付けるという地位を確保したのも良い知らせだ。会計に接する立場を維持すれば、公爵家の財務がわかり、アバーテ伯爵の要望を通す視点も得られる可能性があった。
春樹はダニエルゼが公爵に使った話術に素直に感心していた。
まず、公爵家の政に参加したい、というにわかには承諾しがたい要望を出した。その後で、帳簿を付ける作業の手伝いをしたい、という最初と比べると聞き入れやすい希望を出した。
これは悪徳商法で使われる常套手段だ。
まず、10万円の壺を買ってくれと話をする。まず、断られる。次に、2,000円の果物ナイフを買ってくれるように頼むのだ。すると、最初の理不尽な要望との落差に何となく買ってしまう人が多い。最初から果物ナイフを売り込んでも買ってもらえないものだ。
だらけた格好で、椅子に座っているダニエルゼに春樹は視線を投げた。
(ま、計算してやったことじゃないだろうけど)
アバーテ伯爵が出て行った後の部屋には、弛緩した空気があった。
ビエントにいた頃から、四人で春樹の部屋に集まっていた仲だ。特に緊張する必要もない。
しばらく無言の時間が過ぎてから、ダニエルゼは軽口を叩くように口を開いた。
『実は、アバーテ伯爵には言ってないことがあるんよ』
『馬鹿だってことは、口に出さなくてもばれてる』
『黙れっての』
シータの憎まれ口に、ダニエルゼは歯をむき出して威嚇をする。
『父上が言っていたんやけど、実は……』
声を潜めて、ダニエルゼは周囲を伺うように体を心持ち小さくしながら、目の前に人差し指を立てる。
芝居がかった仕草だったが、自然と春樹も耳をそばだてた。
じりじりと鳴っているのは、蝋燭から流れ落ちる蝋が溶ける音だ。
自分に注目が集まったことに満足したダニエルゼが、口を開いた。
『実は、ルーク兄さんは、父上に殺されたらしい』
その一言は、春樹の体を硬直させるのに十分なインパクトを持っていた。




