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クリストの目には力があった。意志という人にとって、大切なものが十分生きていた。
「父上、お体は大丈夫ですか」
クリストが顎をしゃくると、侍女達が体を支えて上半身を起こした。
そして、クリストはこけた頬をへこませて笑った。
「体調は良くはない。だがお前が来たから、少し気分は良くなったようだ」
「冗談はよしてください」
ベルマンが険を含んだ台詞を差し挟むと、ダニエルゼの前に出る。
「父上、無理をしたら体に響きます。……ダニエルゼ、控えろ」
ベルマンが上からダニエルゼを睨んだ。
「大丈夫」
クリストが手を振る。
「しかし……」
「大丈夫と言っている」
クリストとベルマンの視線が交錯する。
どこか野生動物の縄張り争いのようなにらみ合いが続いた。やがて、ベルマンが視線を逸らせた。
「分かりました」
ベルマンは忌々しそうに目をすがめた。
「ダニエルゼ、あまり長居をするなよ」
ベルマンは浅く頭をさげると、ヨゼフに一瞥を残して、靴音高く部屋から退出した。閉められた扉が、耳障りな音を立てる。
続いて扉の向こうから、話し声が聞こえたが、ダニエルゼの耳には内容までは聞き取れなかった。
「ダニエルゼよ。ビエントの光の聖霊の教会での行学はどうであった」
どうであった、とは何とも曖昧な言葉だった。
そんな不明瞭な問いかけに一言で答えるのは難しい。ビエントでは様々なことがあり過ぎた。
「つらいことはなかったか」
「はい。お気遣いありがとうございます」
見当違いな心配に、ダニエルゼは内心の苦笑を押し殺して、軽く頭を下げた。
クリストの心の内には、教会での修行や、鍛錬のことしかないのであろう。たしかにその時間は、ビエントの生活でのかなりの部分を占めていたが、濃厚な時間はそこにはなかった。
(いや)
ただ、ダニエルゼがその時間に自分自身で価値を置かなかっただけだ。聖霊に祈る時間よりも、剣の鍛錬に意義を見いだし、会計を学ぶことに価値を置いたのだ。祈りが、自分のこれからの人生に何かを与えてくれるとはダニエルゼには思えなかった。
ダニエルゼにとって、教会は逃げ場所だった。光の聖霊の教会は、ソーラス城にいることが嫌だったダニエルゼにとっては、そこから逃げる理由を作ってくれた場所なのだ。
「このまますぐに、ビエントに戻るつもりなのか」
もちろん、そんな選択肢はダニエルゼにはない。もはや、ダニエルゼにはビエントに戻るという未来はない。田舎に引っ込んでいては、政治の中心から遠ざかるばかりだ。
それでは、誓いが果たせない。
(そうだ、あれは光の聖霊への誓いだ)
祈りを否定する自分が、誓いに絶対の価値を見いだす、それがダニエルゼ自身少しおかしく感じた。
(ただ祈りは、人任せであり、誓いは、自らの行動だ)
ダニエルゼは、クリストの問いにどのように答えるか、しばし考えた。
「父上、実は相談がございます」
「相談……とな」
クリストは首を傾げた。
ただ、それだけの仕草なのに、クリストの雰囲気ががらりと変わった。
為政者の顔だ。
「ヨゼフ以外、部屋から退出せよ」
侍女が滑らかな動きで、部屋から姿を消す。
代わりに残ったヨゼフの存在感が増す。ヨゼフが、ダニエルゼに頭を下げた。
「ダニエルゼよ。お前が、私に何かを相談するのは、はじめてのことだ」
クリストの頬に笑みが浮かんでいた。
(そうだっけか。……それはともかく、どうすっかな……)
ハルキと伯爵に頼まれた、財務諸表を見せてもらうという要望をどう伝えるのか良いのか。
真正面から、財務諸表がみたい、と言って通るのか。
それがダニエルゼの性に合ってはいるが、後からハルキに後頭部にチョップを食らいそうだ。
(案外、痛いからなぁ、あれ)
ベルマンが何かハルキ達と話していたようだが、いまは話し声は聞こえなかった。扉を開ければ、ハルキ、ニコ、シータ、そして伯爵も心配そうに部屋の中をうかがっているだろう。
そう思うと、なぜか勇気づけられる。
「ダニエルゼ。病の床にある私に代わって、ソル公爵家を回しているのは、さきほどのベルマン。それとこのヨゼフだ。もともとソル公爵家における家令とは、政治的な助言役としての立場であったが、今は立場が強化されているのだ。その相談とやらが、これからのソル公爵家に関わることであれば、ヨゼフも聞く権利があるのだ」
知らなかった。
ヨゼフが、いつもクリストに付き従っていたことは、ダニエルゼも知っていたが、執事のような立場だと思っていた。
昔は、クリストの側にはいつも、ヨゼフと長男ルークの姿があった。
(ん……そういえば)
ふいにダニエルゼが気になったのは、長男のルークのことだ。
あの快活で聡明な兄は一体、どうしたのか。
ベルマンもルークがいれば、決してクリストの政務を継ぐようなそぶりを見せなかったはずだ。
貴族の評判もそうだし、民達の人望も、ベルマンとルークでは比較にならないほどだった。
ダニエルゼが通っていた街の学校にも、ルークの名声は聞こえていた。
「父上。ルーク兄さんは、今……どちらに」
ルークは行方不明という話だったが、ダニエルゼは婉曲的に聞くことにした。ダニエルゼを見て、クリストがかすかに眉を上げた。
「その話、誰から聞いた」
質問の意図が、すぐにばれた。態度からか、それとも声音からなのか、いずれにしろ経験の違いだろう。
「……アバーテ伯爵からです」
観念して、ダニエルゼは正直に話した。いま、クリストの不興を買うことは得策ではない。それにそもそも隠し事は、ダニエルゼの性に合わない。
「アバーテ……とな。ヨゼフ、アバーテはどこに属している」
「ルーク殿下の派閥でございます」
「ルーク……か」
クリストはダニエルゼに向き直った。
「いま、ソル公爵家の貴族達がいくつかの派閥に割れているのは知っているか」
「たしか、ベルマン兄さんと、エーゴット叔父さんとに別れていると、聞きました」
「それも、アバーテからの情報か」
「そう……です」
クリストが小さく首を振った。そして目が心持ち細くなった。すべてを見透かしそうな視線だった。ダニエルゼは喉の奥がひりつくような緊張を感じた。
「アバーテは、外に来ておるな」
「はい」
クリストとヨゼフが視線を交わした。
ダニエルゼは自分が緊張していることに気がついた。
何を言われるのか、ダニエルゼには予想がつかない。アバーテ伯爵の公爵領内での立場、それにダニエルゼ自身の公爵家の立ち位置ですら、分かっていないのだ。
(知らないって、怖いことやな)
「ダニエルゼよ。私の病が重いことがはっきりするにつれて、ソル公爵家の貴族達は、三つの派閥に別れた。ベルマンの派閥、エーゴットの派閥。それからルークの派閥だ」
ルークの派閥があるということは、行方不明と言っているアバーテ伯爵が嘘を言っていたのだろうか。
「だが、今はルークの派閥はない、いや、もう解散するしかないだろう」
クリストは、煩わしそうに目を何度か瞬いた。
「私が、ルークを殺したからの」
ダニエルゼが、その言葉を正確に理解するのに、まばたきを三回する時間が必要だった。