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ダニエルゼは、見慣れた広い廊下を歩いていた。ソーラス城に住んでいたときは、毎日のように歩いていた場所だ。
慣れているということと、懐かしいというのは同じ意味じゃない。
靴が立てる音が、耳ざわりなのは当時と一緒だ。一歩足を踏み出す度に、反響音があちこちから聞こえて、鼓膜を震わせる。
目障りな人間に会うのも、変わらない。アグネリアが現れたときは、回れ右をして帰りたくなった。
父を見舞うという目的がなければ、実際に帰っていたかも知れない。
ただ、短い間の会話だったが、かつて感じたほどは、嫌悪感が湧かなかった。
(なんでやろ)
ダニエルゼにもよく分からなかった。昔と同じように、どこか鼻に掛かったようなしゃべり方も、じゃらじゃらとした重そうな服装も変わっていなかったのにだ。
「殿下」
ハルキの声にダニエルゼは足を止めた。
「もし可能であれば、公爵閣下に公爵家の帳簿書類を見させてもらうよう頼んで下さい」
「なぜでしょう」
「アバーテ伯爵領への融資を依頼するために、必要なのです」
その言葉に伯爵が、嬉しそうに頬を緩めた。
「そういうお話であれば、私からもお頼みします」
「分かりました。ただ、今日のおとないの目的は、父を見舞うことです。そのような話をする機会はない可能性が高いということを、事前にお断りいたします」
それはわかっている、とハルキ、伯爵ともに頷いた。
ニコとシータは、三人の後ろで黙ってついてきていた。ニコは神妙な顔をしていたが、間断なく周囲を警戒していた。何か、害をなすものがあればすぐに対応できるようにということだ。
一方でシータは、興味深そうに周囲を見ていた。おそらく初めてダニエルゼがここに来たときも同じように、好奇心に満ちた目で回りを見ていただろう。その後に続いた日々は、ダニエルゼにとって、心地良い日常ではなかったが、それでも城に来た時の興奮は覚えている。
正面にある大きな扉があった。
人の身長の二倍の高さはあろうかという大きさだ。
これが、謁見の間への入り口である。
その前まできて、ダニエルゼは左右を見回した。
普段であれば兵士が立っていて、扉を開けて中に誘ってくれるはずなのだが、その兵士がいないのだ。更に言えば、謁見の順番を待っているものもいなかった。
とはいえ、勝手に入るわけにはいかない。
ダニエルゼはたちどまって、扉を見上げた。
両開きの鉄製の扉だ。左右それぞれに神官のレリーフがあり、精巧に花や蔓、葉叢が描かれている。扉の上半分には、天の中心から周囲に輝きを放ちながら、大地を見守るような光の塊、そんな様子を象ったレリーフがある。
光の聖霊の紋象だ。
扉自体の大きさも手伝って、紋象はただそこにあるだけで、神々しい雰囲気を纏っており、どこまでも荘厳だった。
それでいて圧迫感はなく、包まれるような不思議な温かさを紋象は放っていた。
「これは……」
ハルキが言葉を失い、ニコは呆然としており、シータは少し不思議そうに、紋象を見上げた。
「光の聖霊の紋象ですよ」
「これと同じようなものが、ビエントの山の教会にもあった……はず」
ハルキのつぶやきを耳にして、ダニエルゼは説明した。
「あそこにあるのは、風の聖霊の紋象ですね」
「そうか。あそこにあったのは、風の聖霊の紋象なのか」
ハルキはどこか心ここにあらずといった風だ。
「イエナ。いえ、殿下」
ニコが言い直しながら、訝しげに問いかけてきた。
「風の聖霊の紋象は、あちこちの教会で見たことはありましたが、光の精霊の紋象を僕ははじめて見ました。各地の光の聖霊の教会には何度も立ち入る機会があったのですが……なぜ見かけることがなかったのでしょうか」
「風の聖霊は、どこにでもおわしますが、光の聖霊はただおひと方だけ、というのが理由です。湖のうえを滑る風、草原を駆け抜けて影を走らせる風、私達の髪を膨らませる風、どこにでも風の聖霊はいらっしゃいます。しかし光の聖霊は、天に存在し輝いているおひと方のみ。ですから、光の聖霊の紋象は、このロドメリア大公国、五公爵領すべてを捜しても、ここソル公爵領、公都ソール、ソーラス城の謁見の間の前にある紋象の扉ただひとつしかないのです」
「それはつまり、光の聖霊はソル公爵家を守護しているということなのか」
ハルキの探るような問いかけに、ダニエルゼは頷いた。
「そうです。ロドメリア大公国の基礎を築かれた、初代ソル公爵イエナは、光の聖霊の加護を得て、公爵領のすべての民、大地、湖沼、山野に、光の聖霊の恩恵を行き渡らせたと伝えられています。更にイエナは、光の聖霊だけではなく、他の聖霊の加護も得ていました。だからこそ、五公爵の領袖として、この大公国をまとめてあげることができた、と語り継がれています」
この話は、ダニエルゼが乳母のソーニャから徹底的にたたき込まれたものだ。毎日、寝物語のように話し込まれて、覚えてしまった。
そういえば、ソーニャに仕込まれたニホン語は、少しいびつらしい。だが、ソーニャに言わせると、ダニエルゼが教えられたニホン語が正しいニホン語なのだという。今、宮廷で使われているニホン語は、偽物なのだと言っていた。
扉の前に五人が立っていると、慌てた様子で脇の廊下から二人の兵士が出てきた。
「ダニエルゼ殿下。お待たせして申し訳ございません。どうぞ、こちらへ」
「え……ああ、わかりました」
そうだ。
考えてみれば、当たり前の話だ。病で伏せっている父が、謁見の間で迎えてくれるはずがないのだ。
ダニエルゼが記憶をさらうと、兵士が向かっているのは、公爵の私室がある方向だった。
廊下の幅は、さきほどダニエルゼ達がいた場所と比べると、十分の一にも満たないもので、作りも質素なものだ。
(ああ、この十分の一という考え方は、ハルキから教わったものや)
ゲオルグが、知識とは知恵の源であり、知恵の蓄積こそが人間の成長をもたらす、だからこそ辺土にも学校が必要なのだ、と嘯いて言っていたことがある。ビエントに学校があるのは、そういったゲオルグの考えが現れだ。
ダニエルゼは、ビエントに行って、多くのことを学んだ。それはゲオルグの言葉を借りれば、成長したということなのだ。
「こちらでございます」
父の私室の前で、兵士が背筋を伸ばして、ダニエルゼに向かって一礼をした。
ダニエルゼは、扉の前で兵士と同じように背筋を伸ばした。
久しぶりに父と会うために、心の中をぴしりと正装をする。
父と娘なのに、そのように気構えを作らなければいけない間がらなのが、ダニエルゼは少し寂しかった。