8
春樹は、老人に笑みを返してから、服を身につける。
冷静になると、老人、しかも男性の前でストリップをやっていたとしか思えず、気恥ずかしさが先に立ってくる。
いそいそとパンツを履き、そそくさとシャツを着た。
そしてスラックスを手にとったところで、ポケットから転げ落ちたものがあった。
折り紙だった。
それを見た老人は、眉根を寄せた。
手を伸ばして折り紙を手に取ると、不思議そうな顔をした。そして次の瞬間に、瞳に真剣な光が宿った。
そして絞り出すように呟いた。
「…お……り…が…み」
日本語だった。
老人は噛みしめるように、もう一度口を開いた。
「おりがみ」
二回目は、発音まで正確だった。たしかに老人は、折り紙と呟いたのだ。
春樹は驚いて老人の横顔を食い入るように見入った。だがそれ以上に老人は驚いているようだった。
老人は、ぶつぶつと、春樹の分からない言葉を呟いたかと思うと、春樹に向き直った。
「お前、ニホン語が読めるのか」
問われた。
どう、答える。スラックスに右足だけ突っ込んだ状態で、春樹は固まってしまった。格好が無様な置いておくとして、正直に答えるのがいいのか、どうなのか。
迷っている時間はない。
とにかく、迷ったら誠実に。それがたぶん日本人だ。
「日本語は読めますし、話せます」
それだけを答えて、春樹はとにかく左足もスラックスに通した。ジッパーを上げるときに、パンツを噛んでしまって締め直した。ちょっと間抜けだ。とはいえ、パンツを履いた状態でまだ良かった。パンツがない状態だと、目も当てられない。
「お前、名前はなんという」
名前、か。
「春樹です」
「ハルキ」
老人は何かを考えるように、腕を組んだ。そしてその場で、つま先を上げてリズムを取りだした。
攻撃的な雰囲気が霧散していることに、春樹は胸をなで下ろす。あそこまでの悪意を叩きつけられたのは、生まれてはじめてのことだった。
春樹はようやく落ち着いて、老人を観察することが出来た。
鼻が高く、目が大きい、それでいて唇は薄い。若い頃は、結構な美男子だったのではないか。身長は春樹よりも少し低い、10センチ程度は違うだろう。体つきはがっしりとしていた。
着ているものは、薄い緑色のもので、袖が膨らんでいる。布なのだろうが、ごわごわした感じがあるようだ。植物繊維ではなく、毛織物のように見える。そして靴も布で出来ているようだった。
何より目が引かれるのは、腰に下げた太刀だ。刃を下向きに下げている。使い込んでいるのだろう、柄に巻かれた布は黒ずんでいる。簡素なつくりの鞘には一切の模様がなく、綺麗な木目だけが浮かんでいた。
体つきだけを見れば、肉体労働をしていたベテラン鉱夫のようだが、太刀がそれを裏切っている。どこかの兵士だったのか、もしかすると今でも兵士なのかも知れない。
老人は無遠慮な春樹の視線を気にする風もなく、黙考を続けていたが、不意に春樹に問いかけた。
「ニホン語を教えることはできるか」
できるわけがない、日本語オンリーで、日本語をどう教えるのか。
「日本語を教えることは、たぶん、できますが、あなたが話す言葉がわからないので、無理です」
できる、というのは簡単だが、すぐにばれる嘘は結果的に収支は赤字になるもんだ。
「ニホン語は使えるのに、共用語が使えないか。そんなやつは聞いたことが無いが……」
老人はそう呟いてから、目の前で手を振って見せた。
「ニホン語さえ、使えれば問題ない」
そう言うと、折り紙を春樹に突き返してきた。
日本語さえ使えれば、問題ない、春樹は老人の言葉を胸の内で繰り返した。どういうことなのか、理解しようとするものの、辻褄の合う答えが思い浮かばない。
「お前のニホン語は、今まで俺が聞いてきた中でも、もっとも自然に聞こえる」
「ありがとうございます」
なんとなく礼を言った。ただ、春樹は生まれてこの方、日常生活はすべて日本語でこなしてきた。それを褒められても、戸惑うばかりだ。
それに日本語が使えれば、日本語を教えられるってどういう意味だ。
「色々聞きたいこともあるが……まぁいい」
足先で刻んでいたリズムをぱたっと止めて、老人は教会の入り口に向かった。
「ついてこい」
老人は、そう言い残して、外に出て行った。春樹がついていくことを微塵も疑わない物言いだ。
上から目線が鼻をつくものの、春樹はついていくことにした。
とりあえず、言葉が通じるという安堵感がまず第一にあった。また、殺されかけたのに春樹自身でも不思議なのだが、老人が信用にたる人物に見えたのだ。
安易についていって、だまされる可能性ももちろんある。
だが、この教会にいて事態が好転するとは、春樹には思えない。
ここにいれば、寝る場所は確保される。しかし、そもそもこの建物がだれのものかが分からない。この老人のものだとしたら、老人に信用されなければ使うこともできない。少なくとも老人は、この教会に訪れたのだから、教会の住人とは何らかの関係があるのだろう。間をとりもってもらうだけでも、助かるのは間違いない。
教会の入り口に立つと、森へと向かう小道を歩く老人の後ろ姿が見えた。
春樹を待つという選択肢は、老人にはないようだった。
春樹は意を決して、老人の後を追った。