76
「春樹殿が話したとおり、ウェントゥス公爵家は離反を持ちかけてきていたのです」
「そんなことが……」
ダニエルゼが驚いて、高い声を出した。
春樹は伯爵に、確認を取ることにした。
「しかし、そのように我々に打ち明けるということは、閣下は離反する気はないということですね」
「しかり」
伯爵は頷く。
「交渉は、ウェントゥス公爵家から正式に提示されていたが、実質はルドウィンです」
「ルドウィン」
ダニエルゼは記憶を探っている様子だが、思いあたる名前ではないようだ。春樹は、公式文書で何度か名前は見たことがあった。とはいえ、もちろん会ったことも見たこともない。
ただ、書面で見た内容からして、ウェントゥス公爵家の内部では、武闘派ではなく政財畑の立ち位置の人物なのだろうという推測程度はできた。
「ルドウィンは、ウェントゥス公爵家の跡継ぎです。ウェントゥス公爵には、他にも息子がいて、嫡男であるルドウィンはあまり目立っておりません。内紛や、領境のいざこざで前面に出てくる次男のダレルのほうが、領民には人気があります。だが実際に公爵家を動かしているのは、ルドウィンです」
アバーテ伯爵は、グラスを傾けて残っていた酒をあおると、タンと机に置いた。
「私は、このルドウィンを信用できません。だから、ルドウィンがいる限り、ウェントゥス公爵家の要求に応えるつもりはありません」
え、と春樹は思った。そんな理由で、ウェントゥス側の要求を蹴飛ばしているのか、と。
春樹の視線の意味を伯爵は正確に理解したようだった。
薄く苦笑いを浮かべながら、ダニエルゼに顔を向けた。
「殿下。上に立つものに必要なのは、策略を巡らせて他国を出し抜くことでも、うまく領内を運営して財務を潤沢することでもありません。……そうですな」
「もちろんだ」
ダニエルゼはすぐに首肯した。
「上に立つものに必要なのは、たったひとつ。臣下から信頼されること、それひとつです」
「まことにさようで」
「信頼こそが、人の繋がりの根源です」
ということだ、と伯爵が春樹に顔を向けた。
今度は春樹が苦笑をする番だった。
「私がルドウィンを信用しない理由は様々あるのですが、それはこの際、脇に置いておきましょう。今、アバーテ伯爵領は、なかなか厳しい状況にあります。ウェントゥス公爵領と接しているために、ウェントゥスがソル公爵領に侵攻するためには、必ずアバーテ領を通る必要があるのです。ウェントゥス家からの打診を断り続けるには、ある程度の兵力を常駐させる必要があるのに、それをすべて伯爵家が負担しているのです。早晩、物量的にも財務的にも破綻してしまいます。……ダニエルゼ殿下」
伯爵がはっきりと、ダニエルゼに頭を垂れた。
「どうか、ソル公爵家の援助をいただけないでしょうか」
(それは、頼むところが間違ってるでしょ)
春樹は、心の中で呆れていた。公爵本人に陳情するのが、本筋だ。公爵が病床であるという状況を考えても、ダニエルゼに頭を下げるぐらいなら、行方不明であるルークの弟であるベルマンや、クリスト公爵の弟であるエーゴットに援助を頼んだ方がよっぽど期待ができる。二人は、権力争いをしているというではないか、どちらかにつくといえば、喜んで援助してくれるに違いない。
『住民達にこのままでは危害が及びそうということなんやな』
ダニエルゼの言葉が、唐突に日本語に代わった。
貴族である伯爵は、当然、日本語を解する。
『ソル公爵家の領民を救うためなら、私はなんでもやるで』
ダニエルゼの声は大きく、宿の部屋の静寂に響いた。胸の前では、握り拳まで作っている。こういう時の、ダニエルゼは生き生きしている。焦げ茶色の瞳が、くりくりと動いた。
ダニエルゼが飼っている猫は、飼い慣らされているようで、存外逃げ出すのも一瞬のようだった。
ダニエルゼの様子に、伯爵は戸惑ったように目を白黒させた後に肩をすくめた。
「殿下は、なかなか面白い方ですな」
『まかせとき、公爵家の予算の一部を、伯爵領に回すように父上に頼んでみる』
「ありがとうございます」
ダニエルゼは、胸を叩いてみせた。威勢だけはいい。そんなに簡単にいくものではないだろう。
公爵家の財政がなかなか苦しい状況であることは、ビエントの街にいる時からある程度知っていたし、当然伯爵もそのことを知った上でダニエルゼに頼んでいるのだ。
『ハルキは、こういうのすっごく得意だからな。まかせたぞっ』
え、そういう話なのか。




