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雲は、見事に晴れていた。
ビエントからラヌゼへの道中と同様、春樹はダニエルゼと共に伯爵の馬車に乗り込むことになった。
馬車での道行きは、歩くよりは楽なのだが、やはり振動が強く尻に伝わってきて快適とは言いがたい。
風は存外、強く吹いていた。ダニエルゼは髪を押さえながら、外に視線を投げていた。
春樹もそれに習って、空を見やる。晴れ上がった空には、何の曇りも見当たらない。
伯爵ものんびりとした風情で、景色を眺めている。
春樹は日本のことを思い出す。
日本の空よりも、この国の空のほうが青が深くて天が高い気がした。いや、ここまでまじまじと空を見ることが日本ではそもそもなかった。
なぜだろうか。
いつも、何かに追われているような、そんな毎日だった。
それなのに自分の意志では何もしていないような、そんな息苦しい感覚があった。
こちらに来て、自分の命を、奴隷解放のために費やすと決めた。
この国の制度を知るにつけ、とんでもない無謀な願いだと痛感するが、どこか心は今日の空のように澄み渡っていた。
春樹はずっと言うべきかどうか悩んでいることがあった。言うべきかどうか悩むようなことは、早く言わないときっと言わずに済ませてしまう。それは伯爵にとってマイナスになる可能性があることだ。
言わないのは不義理だろう。
今日の空のように澄んだ心持ちで居続けるためには、伯爵に少し言いづらいことを告げねばならない。
結局、ダニエルゼの影響を春樹も受けているに違いなかった。
話すと決めると、春樹は躊躇わなかった。すぐに頭の中で、論理を組み立てて伯爵に説明をする。
春樹が告げた話の内容を聞いて、伯爵は不機嫌な声を出した。
「アントンが横領をしている可能性があると申すのか」
「はい」
この春樹の話に、ダニエルゼも驚いた風に口を開いて見せた。
「そのようなこと、今まで私にも言ってなかったではないか」
「機会がなかったのです」
ダニエルゼは不満そうに、唇の端を上げた。だがそれ以上は、何も言わなかった。
「春樹殿は、アントンと話したのは昨夜が初めてのはずだな。なぜ、その短い間で、アントンが横領している可能性に言及できるのだ」
「それでは順序だてて、ご説明いたします」
春樹は昨夜、アントンが見せた見積もりの不審な点を伯爵に説明することにした。
馬車が一度、大きく揺れた。
「閣下。アントン殿が見せた見積もりは、子細に検討してありました。包装材のような消耗品まで、どこで購入するか比較してあったのです。これはとても良いことですし、アントン殿の几帳面な性格が出ております」
「数字を扱う人間は几帳面なほうがよかろう」
「おっしゃるとおりです。そのような少額の購入まで、金額の検討をしているようなアントン殿が、倉庫を見積もりに入れていなかったのはなぜでしょうか」
「忘れていたのだろう」
「300,000キルクの出金のことを、閣下に話すことを忘れているというのは、かなり致命的なミスではないでしょうか」
「それは……そうだな」
伯爵は少し考える。
「私が指摘するまで、倉庫の話題を全くださなかったのが、どうにも引っかかるのです。それに倉庫については、いくつかの業者に値段の交渉をしたのでしょうか」
「……どうであろう」
「殺虫薬まで、どこの店で買うと得かを検討しているのに、高額の倉庫については比較しないのは、配慮が足りないのではないでしょうか……更に」
春樹は今朝の市場で聞いてきたラリアナ茶の相場を説明した。
現物納付の評価額が、市場価格と乖離していた実態に話がおよぶと伯爵が唸った。
「そんなにも違っていたか」
「そもそも現物納付の評価額を一定にするというのは、暴挙といっていいでしょう。市場価額が変動するのですから、当然現物納付の評価も変動させるべきです」
伯爵が頷く。
「そうだな」
「私が懸念するのは、こんな当たり前のことをアントン殿が全く閣下に進言をしなかったことなのです。なぜ、ラリアナ茶の2等級による納税が増えたか、ということなど、アントン殿であれば、すぐに気づいたはずです。アントン殿は、非常に頭の良いお方なのですから」
「つまり、ラリアナ茶を保管するための倉庫を作りたかったということか。その業者とアントンが結託している、と言いたいのだな」
「そうです。もちろん、すべて私の推測に基づくものですから、何の根拠もありません。ただ伯爵のお耳に可能性の話としてお伝えしておくべきだと思ったのです」
「その通りですね」
ダニエルゼが相づちを打った。
「さすがはハルキ。よく気づき、よく話してくれました」
ダニエルゼの言葉使いは、すましたものだったが、響きは本音が含まれているように思えて、春樹は少し得意になる。
「ハルキ殿の話はよく分かった。アントンが倉庫を依頼しようとした業者がどこの者で、アントンと何らかの繋がりがあるのか調査しよう。また過去の伯爵家との取引関係も精査することとしよう」
伯爵はまだ半信半疑ではあったものの、そのように春樹に告げた。春樹は伯爵の対応に感心する。この人は、感情に流されることなく、冷静な判断ができるようだ。
「伯爵。嫌な話はここまでにして、何か楽しい話でも致しましょうか。そう、公都のお話でも聞かせてくださいませんか」
うまくダニエルゼが話題を変えてくれた。
そして、それは春樹も聞きたいことだった。