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ラヌゼの街の北の門。
公都であるソールに向かう者、バスキ公爵領との貿易の要衝となるナブリアに向かう商人が使う門だ。
ラヌゼはウェントゥス公爵領との境にあり、ソル公爵領の玄関口となる街だ。ウェントゥスで仕入れた品をラヌゼで売って、ラヌゼやナブリアで、ソル公爵領の品を購入してバスキに商いに行くという、行商ルートがあるようだ。
ただ、あまりにも有名で利益は見込めないらしい。
商うのは茶、干物、塩、皮製品、綿製品、といったところが主な商品と聞いた。
鉄の加工技術については、ロドメリア公国全体があまり優れていないため、南国のカーデルからの輸入に頼っている状態だ。そもそも公国には鉄鉱山がないのだ。また、騎馬に関しても公国の中には、産地がない。
そんな知識を、春樹は朝の市場の巡回で手に入れていた。
昼下がり。
北門の前に、春樹達は立っていた。
春樹、シータ、それにニコは歩行で門の前まで来た。アバーテ伯爵と待ち合わせをしていたのだ。
ここまで来るまでも、三人で歩くとかなりひと目を引いた。ニコの大きな体躯と、シータの美貌は注目されるようだ。ビエントの街はすべての人が顔見知りであり、家族を見かけてもわざわざ注目しないように、二人といても挨拶される程度であって、特にどうということはなかった。そのため、歩くだけで注目されるこの状況に春樹は居心地の悪さを感じた。
実際、ニコの背の高さについては、春樹も自然と目が吸い寄せられるのは納得がいくのだが、シータにはついてはまだ中学生程度の年齢のはずだ。美人なのは間違いがないが、そこまでジロジロと見るほどだろうか、という疑問符が付く。
その北門の前に、脂肪の中に首を埋めたようなアントンがやってきた。その隣には、馬に跨がった兜の面を下ろした騎士がおり、その従者の二人が歩行で付き従っていた。
「ハルキ殿。昨夜は勉強になりました」
アントンは笑顔だった。顔にも肉がついているため、笑うと目がとても細くなり、一本の線のように見えた。
そうなると、とても人なつっこく見えた。
根はそう悪い人間ではないのかも知れない。
アントンは、春樹の隣に立つシータに気づくと、口を開けて、青い目を丸くした。
「いえ、こちらこそ。差し出がましいことを申しました」
春樹は頭を下げる。
「いやいや、ハルキ殿の会計に対する卓識には感服しました。また、公都からの帰りにお寄りいただいて、ご指導くだされ」
いやいや、と春樹が応じると、延々と続きそうな会話になりそうだったので、春樹は馬上の騎士を見上げた。
「騎士様もお見送りにきていただきありがとうございます」
兜の面を上げると、そこにはニコの決闘に立ち会った騎士エッダの顔があった。
「まぁ、ハルキ殿を見送りに来たわけではないがな。閣下をここでお見送りしようと思ったのだ」
エッダは、鼻をかきながら答える。
アントンと同じ深い青い瞳。兜の隙間から、長い金色の髪を垂らしている。昼間に見ると美人に思えた。
エッダは、春樹からニコに視線を移した。
「ニコは、公都で騎士になるそうだな」
「はい」
ニコが力強く頷いた。いつも通り、ニコの口元には笑みが浮かんでいる。それを自信と受け取ったのか、エッダがまぶしそうに目を細める。
「ダニエルゼ殿下の騎士になるのか」
すぐにニコは首を横に振った。
「いえ、僕はソル公爵家の騎士になります」
「ほう……公爵家の」
「殿下個人に仕えるのではなく、ソル公爵家というソル公爵領を治めるものに仕えます」
エッダは驚きを顔に浮かべた。
「面白い考え方だ。そんな風に考えるものがいるのか。ふむ……そなたほどの腕があれば、きっと叶うだろう」
たぶんエッダは、ニコが奴隷であることを知らないだろう。だが、ニコは笑みを浮かべながら、エッダに頷いて返した。
「それから、報告を受けた市場の地下道については、さっそく昼から調査を開始する。そなた達が公都から帰ってくる頃には、しっかりと結果を説明できるように準備しておこう」
「わかりました」
春樹はエッダに頷いて見せた。
シータはずっと黙っている。
灰色の瞳は、ここではないどこかに向けられていた。今朝の市場での追跡劇を思い出しているのかも知れない。神がかり的な偶然で出会った兄との会話が叶わなかったのは、無念だろう。
あの後、隠し通路をアバーテ伯爵に報告するかについて、春樹達は話し合った。ダニエルゼは報告すべき、と主張した。
領主としては、街で起きていることを把握すべきところであり、それを報告すべき義務が民にはある。黙っているのは罪だ、とダニエルゼは断じた。この場合の罪とは、法による罪ではない。ダニエルゼの信念において罪ということだろう。
ニコはすぐに報告する必要はない、とした。シータが兄を捜すことができるようになるまで、通路はそのままにしておいたほうが良い、というのだ。シータには、兄を捜すという希望があるのだから、まずそれを優先すべきではないかという意見だった。すでに入り口は閉ざされているのだから、慌てて報告する必要はないだろう、と。
一方、シータは淡泊なもので、すばやく報告したほうが良いと言った。隠し通路を使っているような人間は、後ろ暗いことがあるに違いない。畢竟、ろくでもないことをしているのだ、と。
春樹としては、報告するという方向性は賛成だった。ただ、アバーテ伯爵に直接報告するという方法は、避けるべきだと考えていた。よそ者が伯爵に隠し通路のことを話せば、街の警護を担っているものの、面目が立たないからだ。
したがって、昨夜面識が出来た騎士エッダに報告をする、というのが春樹の結論だった。
結局、春樹の意見が採用されて、エッダにダニエルゼと春樹が報告する形を取った。
報告を聞いたエッダは春樹達に感謝を述べると、素早く対応をした。すぐに伯爵に報告を上げたのだ。春樹とダニエルゼはこの地下通路の情報についてエッダが見つけたという形で良い、と言い添えたのだが、伯爵にはエッダとダニエルゼらの共同の手柄ということで報告が上がった。
結果、アバーテ伯爵とエッダの両名から感謝された。
実は、春樹はこの結果をある程度予測していた。昨夜のエッダの振る舞いをみる限り、情報を握りつぶしそうな性格には見えなかったし、また春樹達に対して配慮をしてくれているのが、見てとれたからだ。もし春樹達が直接伯爵に報告をしていれば、伯爵には感謝されただろうが、エッダ他騎士達から恨みを買う可能性が高かった。エッダを通すことで、騎士達の顔も立ち、伯爵からも感謝される。まさに一石二鳥である。
これから、ダニエルゼの公爵領内での地位を確保するには、こういった寝技的な思考は必要になるはずだ。
ダニエルゼに必要なのは、金、人材或いは人脈、そして名声だ。日本の選挙と同じ、鞄、地盤、看板。今はどれも足りていない。これからそれを手に入れていかなければならない。政治家には、バックにブレインが付いているが、ダニエルゼにはタネもシカケもなく、春樹とニコ、シータの三人しかいない。
シータの兄が何をしていたのかは分からないが、少なくとも現状、伯爵達の心証を良くするのに大変役立ってくれたのは間違いがない。人脈の形成にひと役買ってくれたわけだ。
「そろそろ、閣下の馬車が到着する頃合いです」
エッダがそう言うと、ちょうど伯爵の馬車が近くの辻を曲がってきたところだった。
ダニエルゼが窓から身を乗り出して手を振っている。淡い栗色の髪が、風になびいて膨らんでいた。
公爵家の令嬢としては、品のない姿だ。だがエッダは、笑みを浮かべて楽しそうに見ているし、アントンもやや眉を顰めながらも、仕方がないという風で見守っている。
ダニエルゼには、人を惹きつける何かがある。
「さてさて」
春樹は考える。
ダニエルゼのブレイン役をするのは、どうやら自分のようなのだ。これから公都に向かい、ダニエルゼが公爵になれるかどうか、ニコが騎士になれるか、そして奴隷解放がなしとげられるか。
それは分からない。
分からない未来を、自分たちが思い描く未来にできるかは、これからの春樹自身に掛かっている。それは少し不安で、一方で希望に満ちた明日だ。
この国で生きるということは、日本にいた頃のように、レールが見えない。つまりは安心感がない。その不安定さこそが、生きるということの醍醐味なのだ、というように春樹は考えるようになっていた。