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床の下に作られた穴を前にして、春樹は呆然としていた。
(隠し通路って、なんの時代劇だよ)
時代劇のような場所に来ていながら、心の中ではぼやきが出る。
「ここ、はしごがあります」
ニコが冷静にそう告げる。春樹もそれには気づいていた。
木製のはしごが暗い闇の底から、伸びてきて手が届くところにあった。春樹はそのはしごを持って、軽く揺らしてみる。ぐらりと、はしごは簡単に動く。
(こんなものを当てにして、降りるなんて自殺行為だ)
それはニコやシータも感じているようだった。さらに穴には、まったく明かりが見えない。頼りになるのは、地上から届いている光だけなのだ。どれだけ目をこらしても、はしごの先がどのようになっているのかここからは確認できなかった。
ここは諦めるしかない。
春樹がそう二人に告げるために口を開きかけたところだった。
『何やってんの』
大きな声とともに、聞き慣れた足音が聞こえた。
きしむ床を気にするそぶりも見せずに、ずかずかと入ってきたのはやはりダニエルゼだ。関西弁風の怪しげな日本語を話す人間など、そうはいない。というか、この国でダニエルゼしかいないのではないか。
『ぼろいところやな』
一言である。
身につけているのは、昨夜のようなドレスではなく、ビエントで着ていた町民のものだ。下衣もざっくりとしたズボンで、活動的な印象を与える。こちらのほうが、ダニエルゼに似合っている。
『それで三人揃って、何を見てるの。誰かを追っかけてたみたいやけど……』
どうもダニエルゼは、春樹達がしていたことをしっかり見ていたようだ。
ニコがうんざりしながら、呟いた。
『自分で後をつけるぐらいなら、朝っぱらから僕をたたき起こして護衛を頼まないでほしいよ』
すました感じで、ダニエルゼは髪をかき上げる。
『護衛なんて、滅相もない。春樹が変なことをしないか、見張ってろって言っただけだろ』
『ったく、面倒な性格をしてるな』
再度のニコの言葉を、ダニエルゼは華麗に聞き流した。
『ここから、そいつが逃げたんやな』
するりと体を滑らせると、ダニエルゼははしごに手を掛けた。
止める間も無かった。
『おいっ』
ダニエルゼは素早く階段を降りはじめる。舌打ちを一つして、春樹も降りはじめた。
一歩階段を降りるごとに、暗い闇に足を降ろすようで、ゆっくりと体が闇に溶け込んでいく。恐怖はあったが、ダニエルゼを一人で行かせるわけにはいかない。
上からはシータが降りてくる気配があった。ニコは上に残って見張りをするように、春樹から指示を出した。
空気が少し湿り気を帯び始めた。
どこまでも続きそうな闇だったが、案外すぐに底に行き当たった。
春樹の靴が、ダニエルゼの頭を蹴飛ばしたのだ。
『ちょっ、ワザとやろ。ここ、もう底やで』
シータは静かに上で止まってくれた。
しばらく待ってみたが、ダニエルゼの気配が春樹の足下から消えることがなかった。
『どうした』
『……駄目だこりゃ』
その言葉の意味はすぐに分かった。
春樹も下に降りて、手探りで周囲を伺ったが、通路らしきところがふさがっているのだ。
春樹はシータに灯りを持ってくるように頼む。
市場の真ん中での話だ。シータはどこからか、カンテラを調達してくると、穴の底を照らし出した。
縦穴そのものも人工的なものだった。
そして、底についたところで横穴があった。横穴も人工的なもので、天井を木造の梁が掛かっている。
その横穴は、一歩も進まない先で岩でふさがれていた。一枚の大きな岩が、横穴をふさいでいるのだ。
壁や、天井を見ると、どうもこの岩はつい最近までは、ここにはなかったようだ。岩とこすれる場所の壁に出来た傷が、乾燥していないかったのだ。また足下に崩れている土も湿り気を帯びていた。
『見つかったときのために、通路をふさぐにように準備してあったようだな』
『用意周到というわけですね』
シータが残念そうに、岩に手を置いた。
『どうするシータ。私達は、昼にはラヌゼを立たないといけない。シータは、このままラヌゼに残って、兄さんの探索を続けるか』
『いえ、公都に私も向かいます。兄の件は、別の機会で結構です』
その横顔には、苦渋が滲んでいた。シータが形の良い顎を、くっと首に引き寄せる。ダニエルゼもシータを心配気に、見つめた。ダニエルゼとシータが並ぶと、シータの肌の色の白さが際立った。微かにではあるが、ダニエルゼには黄色人種の血が流れているのかも知れない。
『ハルキ様、戻りましょう』
シータが立ち上がった。
春樹はそれ以上、何も言わなかった。生き別れた兄の手がかりを見つけながら、公都に向かうと言ったシータの気持ちを思うと、何も言えなかったのだ。ダニエルゼはシータの肩をぽんと叩いた。
『おーい、大丈夫か』
上からのニコの声を潮に、春樹、ダニエルゼ、シータの三人は暗い穴蔵から地上へと向かった。