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飄々と歩くディルクの背中は、昔とまったく変わっていなかった。まるで別れた次の日に偶然見かけたような、既視感をシータは抱いた。
すぐに追いつけると思ったが、人波を縫うように歩くディルクの背中はなかなか近くならなかった。
邪魔をするかのように、通行人が前から前から溢れて、シータの前に立ちはだかる。シータはその無秩序に行き交う人々を、小刻みなステップで躱していく。
気がつくと、ニコはすでに隣にいなかった。体が大きいというのも良いことばかりではないようだった。
流れるように歩くディルクを追って、滑るようにシータは走った。
人の波の中に、銀色の髪が揺れていた。それを目印にシータは追った。たしかにこう見ると、銀の髪というのは、人の目を引いた。案外、美人だから注目を浴びているというのは、自意識過剰かも知れないと、シータは自戒した。
徐々に、ディルクの背中が近くなってくる。
銀色の髪の一本一本がはっきりと見てとれる距離まで近づいたところで、ディルクが手を上げた。その先に、女がいた。
商売女だ。
仕草に独特の媚びがある。瞼にも頬にも、濃い化粧を施してあり、だらしなく胸元が開いた紫色の上衣を着ていた。腰の辺りに大きな赤い帯を巻いているのは、娼婦である証だ。夜にあの格好で歩けば、すぐに男が値段を聞いてくるだろう。
シータも何度かああいう女を、かつての主人達の寝所に案内をしたことがある。誰もがどこかで諦念を滲ませていたのを覚えている。
だが、ディルクに手を振り返す女は、明るい笑顔を見せていた。
(なに、あの笑顔)
恋人にあったときの笑み、何か面白いことがあったときの笑い、作り笑い、いずれとも違う。シータが今まで見たことのない笑みだ。
ディルクとその女が一体、どのような関係なのか、それが分かればその笑みの理由は分かるだろう。
ディルクと女は、そそくさと側にある今にも崩れそうな煉瓦積みの家屋に入った。
(まさか、今からなの)
息を切らして、シータは古ぼけた扉の前に立った。呼吸が苦しくて、喉が詰まりそうになる。だけど今は、呼吸を整えることより優先すべきことがあった。
シータは躊躇わなかった。
左胸に、手を当てながら、空いた手で扉を叩いた。すると慌てたような雰囲気が、建物の中から窺える。
しかし、扉は開かない。
もう一度、今度は大きな音で叩く。だが今度は、全く反応がなかった。
シータは苛立ちながら、少し待ったがやはり扉は開かなかった。シータは心を決めた。扉を叩く代わりに、取ってをつかんで押し込んだのだ。
すると、何の抵抗もなく扉は開け放たれた。
そこは埃が舞うあばら屋だった。床は木製、壁は外から見たとおりの煉瓦造り。天井は梁だけになっている所もあり、雨ざらしだ。床も底が抜けて地肌が見えている場所がある。すでに住まいとしての用はなしていない。男女がことにおよぶにも遠慮したくなる状況だ。
殺風景な部屋だ。奥に部屋がある訳でもない。
だが、誰もいない。
「うそ……」
思わず声が漏れた。
隠れる場所がないことはひと目で分かる。左手に竈があるが、家具は全くないのだ。見えるのは壁、床、空だけだ。
シータが足を踏み入れると、床が悲鳴を上げた。足を引っ込めたくなるような、床だ。恐る恐る足裏の強度を確かめながら、部屋の真ん中に立つ。
どこに行ったの。
背後に、ニコの気配がある。振り返らずにシータは尋ねた。
「ニコ、あなたも見てたでしょ」
「ああ」
「どこに行ったか、分かる」
「分からない」
シータとニコは、呆然として立ち尽くした。
どれだけ目を凝らしても、ディルクと女の姿は建物の中には見当たらない。耳を澄ましても、届くのは外の市場の雑踏だけだ。
その雑踏に紛れて、息せき切った足音が近づいてきた。
「シータ」
春樹だ。
シータは、振り返った。入り口のところで、肩で息をついている春樹が立っていた。苦しそうに息を呑んでから、春樹が建物に入ってきた。
「どうだ。兄さんは見つかったか」
「いえ、見失ってしまいました」
「ここで……か。間違いなくここには入ったんだな」
春樹が視線でシータに確認する。シータが頷くのを見てから、周囲を見回した。
「何か、お気づきになりましたか」
「うーん、天井が抜けているが……」
半信半疑の風ながら、春樹が言葉を継いだ。
「ここって、普段から使ってるんじゃないか」
春樹が、そう告げた。
ほら、と春樹は床を指さした。
「人が歩いたあとがないだろ。つまり、床が綺麗なんだ。雨ざらしなのに床が綺麗ってことは、掃除されているか、或いは度々人が歩いているんだ」
春樹の言葉を聞いて、ニコが部屋の四隅を調べている。そして、何かを見つけたのかしゃがみ込んだ。
「ハルキ、シータ。ここ」
ニコが指さした床は、小さな突起があった。ニコは、こちらに視線を投げてから、その突起をつかむと引き上げた。
毎日使っている自分の部屋の扉のように、なめらかに床の一部が持ち上がった。シータは瞬きをするのも忘れて、床の下を覗き込んだ。
そして、三人ともが息を呑んだ。
三人の視線の先、そこには暗い穴が口を開いていた。




