64
帳簿を前にして、伯爵が語りだしたのは、新しい倉庫についてだった。
「倉庫……ですか」
ダニエルゼが怪訝な声で尋ねる。
「左様です殿下。ラヌゼの北東に、土地が空いている場所がございますので、倉庫をそこに建てようと考えているのです」
「それが……?」
「実は、そこに建てる倉庫の規模がどの程度必要なのか、計算していただきたいのです。それから、その倉庫を建てることが、本当に我が伯爵家にとって良いことかどうかも教えていただきたい」
伯爵によれば、元々あった倉庫では場所が足りなくなったために、新しく倉庫を建築したいらしい。
ただ、どの程度の広さでどれぐらいの物資が保管することができるか、ということを伯爵は知りたいようだ。
春樹は首を傾げた。
「倉庫の大きさということであれば、計算士に任せればよいのではないですか」
この国の人々は、一般的には数字に強くなく、足し算や引き算すらできない者が多い。ビエントの町は、ゲオルグの学校に通う子供達だけでなく、その子供らが大人にも教えたりするために、計算できる人数がかなり多い。だがこれは例外だ。この国の一般的大多数の大人は計算ができない。ただ伯爵の家臣となれば、話は別だ。騎士などの武官のほかに、当然文官はおり、計算を専門にしている計算士や、帳簿を付ける経理官、それに財務を司る財務長官もいる。屋敷のことであれば、家令が取り仕切ることになる。
それらの者を従える伯爵は、伯爵領内の最高レベルの武力と、知識を有していることになる。
春樹が伯爵よりも、優越しているものがあるとすれば、帳簿作成と、財務諸表の作成技術。つまり複式簿記に関する技術と、様々な税法知識だけだ。税法知識については、いま直接使用できる類いのものではない。日本の税法が、この国で適用されているわけではないからだ。
「ハルキ殿は、どうも勘違いをしているが、計算士は、計算をするのが専門だ。例えば、いくつかの帳簿の残高を見せて、足し上げるように命ずれば足し上げるが、それ以上のことはできないのだ」
それは電卓と同じだ。もちろん、この国では希有な能力なのだろうが、確かにその能力では必要な倉庫の大きさを計算で求めることはできないだろう。
「それで、倉庫に保管するものはなんなのでしょうか」
「ラリアナ茶だ」
ラリアナ茶。
それは、ラリアナの葉から作る茶だ。この地域一帯の特産品である。春樹が昨夏、帳簿の不正を見つけるために、食べていたのは同じ木になるラリアナの実だ。
ラリアナ茶は、日本の緑茶をもう少し苦みを強くしたような飲み物で、茶色く澄んだ色合いとなる。ほうじ茶のような色合いと言えば、わかるだろうか。
春樹も何度か飲んだことがある。
「当家は、税をお金ではなく、現物で納めることを容認している。そのため、この地域の特産品であるラリアナ茶が毎年大量に運び込まれるのだ」
「つまり、ラリアナ茶を市場で売却できないので、保管する必要があるということですね」
「そうではない。ラリアナ茶は、かなり大きな市場規模があってな。売るつもりであれば、すぐに換金することは可能なのだ」
話が見えない。
ならなぜ、わざわざ倉庫を建てる必要があるのだ。
「ラリアナ茶は寝かせると、価値が上がるのだ」
「ほぅ、そういうものですか」
ダニエルゼが相づちをうった。
(ダニエルゼは、こんなことに興味なさそうだもんなぁ)
たぶん、飲めればなんでも良いのだ。
「左様でございます」
「勉強になります」
などど、ダニエルゼが殊勝なことをいう。
春樹はその対応に安堵した。
(ゲオルグ様は、ダニエルゼの言葉使いを気にしていたようだが、案外いけそうだぞ)
伯爵は、ダニエルゼの言葉使いに何の疑問も持たないようだ。
「等級は2段階で、1等級、2等級がある」
伯爵が春樹に視線を戻す。
「1等級の茶葉は、すぐに飲んだほうがコクがある。だから、1等級の茶葉は、新茶のうちに飲むのが好まれる。一方、2等級は、2年寝かせるのが普通だ。新茶はやや渋みが強い」
「つまり、等級が低いものはすぐに飲むより保管したほうが良くて、等級が高いものはすぐに飲んだほうがいいわけですね」
「そうだ。そして、1等級が好きな人もいれば、2年寝かせた2等級が好きな者もいる。とはいえ、2等級は飲むまでに2年寝かせるわけだから、新茶の市場価格は低い。2年寝かせた2等級の茶葉は、2等級の新茶の3倍の価格になる。最も、下々の者は2等級の新茶を買って、家で保管したり、或いは寝かせずにすぐに飲むようだが」
「茶葉を物納したときの、納税額はどうなっているのですか」
「1等級の新茶が、1箱で500キルク。2等級の新茶が250キルクだ」
新茶の値段は、1等級は、2等級の倍の納税額の評価だ。ということは、2年寝かせた2等級は、750キルクということか。
頭の中での計算を、春樹は確認する。
(1箱というのは、かなり大きいのだろうか。そうでなければ、かなり高額な商品になる)
500キルクは、庶民であれば節約すれば4人家族の1ヶ月分の食費に相当する。
「2年寝かせた2等級の茶葉は、750キルクということですか」
「寝かせた茶葉の物納は、認めておらぬ。寝かせてあるかどうかの判別を専門家に任せる必要がある上、確実ではない。乾燥させるために、かさが減っているし、見た目も違うのである程度は分かる。ただ、どれだけ寝かせたかは、見た目だけで判断は難しい。飲めば新茶かどうかは明確になるのだが、すべての箱の茶葉を飲むのは物理的に不可能だ」
なるほど。
「では、3倍というのは、市場価格ということですね」
「そうだ」
「ちなみに、一年寝かせた2等級は、新茶である1等級と同程度の市場価格になるわけですか」
「おもしろいことを考える奴だな。だが、大体合っている。一年寝かせた2等級の茶葉は、新茶の1等級と同じ程度の市場価格になってるようだな」
つまり、一年間寝かせることに、新茶の2等級と同じ250キルクの価値を見ていることになる。
「一本のラリアナの木からどの程度、1等級と2等級の茶葉が収穫できるのですか。それに1年保管するのにどの程度の手間が掛かって、どの程度の費用が掛かるのでしょうか」
その春樹の質問に対して、伯爵は少し考えた。
「ここから先は、担当者に直接話をさせたほうが良さそうだな……アントン」
伯爵が机の上を叩くと、扉から現れたのは、丸々と太った男だった。
「お呼びでございますか」
その男の顔に見覚えがあった。
晩餐会の時に、春樹の隣に座っていて、春樹を無視した男だ。
アントンと呼ばれた男は、その巨体を重そうに揺らして、春樹に視線を向けた。その目の奥に、間違いなく敵意があった。
(なんか、面倒なことになりそうだぞ)
ここまで、読んでいただきありがとうございます。
4月に入って、ますます忙しくなっております。
小説を書いている時間が、一番の癒やし時間です。
一週間に最低でも一度の更新、というペースは崩しませんので、気長にお付き合いいただけたら嬉しいです。