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その夜。
三たび、春樹は伯爵家の廊下を進んでいた。
一度目は、晩餐会に参加するため。
二度目は、決闘の場に駆けつけるため。
そして、今回は、伯爵に呼ばれたためだ。
隣には、目を輝かせたダニエルゼが歩いている。
さっきまで、興奮気味にニコの勝利について語っていた。ニコが勝った兵士というのが、伯爵家の部隊長だった。部隊長の、上にある役職は伯爵家の武官では、騎士しかいないという上位の立場のものだったのだ。
騎士というのは、地位は上だが、剣術や槍術の取り扱いについて、つまり直接的な武力という意味では、伯爵領で一番長けているのは部隊長だ。その部隊長に、ニコが勝ってしまった。それも圧倒的な差を見せつけて。
部隊長が負けた。
奴隷に。
その衝撃がどの程度の重みを持っているのか。
一方で、ダニエルゼはその事実が痛快だったようで、嬉しくて仕方がないというように、春樹にニコの決闘の話ばかりを振ってくる。
公爵家の剣となる、と明言したニコの実力は、純粋な武力というレベルでは一定のレベルに到達していることがわかった。そして、その武力は、奴隷解放という春樹の目標にもプラスに働くだろう。
それは春樹にとっても朗報だ。
だが、一方で、伯爵領内でそれ以上の者がいない兵士を、一瞬で倒してしまうというのは、よくなかった。ビエントの田舎からきた従者、しかも奴隷がそこまで力を示すというのは、間違いなくやっかみの対象となるだろう。
これから、十日以上、公都への道程はかかるというのに、護衛がニコに悪印象を持つというのは、マイナス要素だろう。
春樹とダニエルゼは、伯爵の執務室の前に立つ。
「入ります」
ダニエルゼはノックもせずに、扉を開ける。
その無礼な態度に、瞬間、背中に寒いものが流れたが、部屋に入ると伯爵はゆっくりと立ち上がって、二人を出迎えた。
(ノックをしなくて良いほど、公爵家と伯爵家には圧倒的な上下関係があるのか)
だったら、呼び出さずにそちらから来い、という気持ちもあるが、それは微妙な慣習があるのだろう。
「ダニエルゼ様、夜分にお越しいただきまして、ありがとうございます」
「構いません」
ダニエルゼは、部屋の中央に置かれた椅子に腰掛けた。春樹はその斜め後ろに控える。
「先ほど、当家の兵士と、殿下の従者が決闘をしたとか」
「はい」
「殿下は、その場に立ち会っておられたのですか」
「なかなか良い決闘でした。伯爵の兵士も奮戦しましたが、私の従者が勝利いたしました」
伯爵が渋い顔を作った。ダニエルゼの横顔は、何とか笑い出すのをこらえているようで、口角が上がっている。
春樹は、ダニエルゼのほっぺたをつまみ上げて、ぐるぐると回したくなった。
(……伯爵に、ニコは強いでしょ、とか自慢げ言い出さないだけマシなのか)
「不甲斐ないところをお目に掛けて申し訳ございません。殿下の従者はまだお若いようですが、一体どなたが指南しているのですか」
「ゲオルグです」
「なんと、先の大戦の英雄にですか」
「授業の一環として、指導しています」
「そうですか。ゲオルグ殿が学校を開いているのは知っておりましたが、剣術の稽古までしているのは存じませんでした」
伯爵は本当に感心したようだ。
「これは、伯爵家の兵士達も、若い幾人かをビエントに住まわせたほうが良さそうですな」
「それでは、町の警護もお願いしたいところですね」
「それはもちろんです。ビエントも我が伯爵領の一部ですからな。それにしても、殿下の従者は素晴らしい剣の冴えだったそうで、騎士エッダが感心しておりました」
ニコの名前を伯爵が言わないのは、奴隷の名前を呼ぶことが貴族に取って屈辱だからだろう。奴隷ごときを名前で呼びたくないのだ。とはいえ、その程度で、伯爵を差別主義者などと言うつもりはない。市井のものでも、奴隷への蔑視は酷いものがある。
ダニエルゼが、異常なのだ。
「彼だけではありません。シータも、そしてこのハルキもなかなかの腕でですよ」
「ほう。それはそれは」
伯爵の目が細くなる。
(余計なことを)
ダニエルゼの後頭部に視線を刺すが、残念ながら春樹の視線に殺傷能力はない。
ダニエルゼの自慢話はある程度、事実だ。部隊長であのレベルならば、春樹やシータもそこそこの腕はあることになる。知らず知らずのうちに、ゲオルグに鍛えられていたようだ。
「二人の腕前も見せていただきたいものですな」
「公都への道行きがございますので、なかなか難しいかも知れませんね」
春樹へ向けられた伯爵の言葉を、ダニエルゼが横取りをした。春樹が答えると、立場上承諾せざるを得ないため、言質をとられないようにダニエルゼが答えたのだ。
「それは残念ですな」
さて、と伯爵は話題を変える。
「今夜、お二人にお越しいただいたのは他でもない。ひとつ、相談事がございます」
伯爵は、机の上に置いた指を組み直した。
「先日は、ハルキ殿に帳簿を見てほしいと話したところではあるのですが、今、当家で問題になっていることについて、より具体的な相談ができればと考えています。殿下は数字にかなりお強いとゲオルグ殿よりお聞きしております。それから、そちらのハルキ殿は、数字については並ぶものがいないほどとか」
「少々、過分な言葉があるようですが」
ダニエルゼは、珍しく謙遜して見せた。
伯爵は取り合わずに話を続けた。
「そんなお二人に、ご助言をいただきたいのです」
伯爵が頭を下げる。
(おいおい、私に対しても、貴族が頭を下げて良いのか)
伯爵が机の上を指で叩くと、奥の扉が開き、侍女が帳簿を持って入ってきた。
(相談事……か。何なんだ一体)
春樹は、背筋を伸ばして、伯爵の次の言葉を待った。




