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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第一章
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 それをなんと表現すればいいだろう。

 六角形を4つ組み合わせたようだが、ひとつひとつは完全な六角形というわけではなく、それぞれが流線型をしている。従って、六角形といってもカチッとした印象はない。右上から、左下に流れるような形。

 水が流れているというよりも、もっと軽やかな何か……そう、風のような。風が柔らかく吹いているような、そんなイメージだ。

 そのオブジェを、紋象(もんしょう)〔注:作者造語〕を中心にして、あまり大きいとはいえないが、ステンドグラスがはめられており淡い光を教卓に落としている。


 紋象は、宗教的な何かを示しているのだろう。


 日本における神道のようなものがあるのかも知れない。

 外国人が鳥居を見たら、なんとなく宗教的なものというのは分かるが、神域と俗界を区切る門だとわかる人はいない。


 ここは、この地域に根ざした教会なのだ。

 春樹は、壁に掛かる紋象をもう一度見上げた。不思議と、宗教的なシンボルというのは、眺めていると敬虔な気持ちが湧いてくる。


 春樹は、頭を垂れて両手を合わせて目を閉じる。

 すぐに思いつく、もっとも即物的なことを祈った。


(どうか、日本に戻してください)


 ぎゅっと、瞼の上と下を合わせてから……うっすらと、目を開ける。でも、やはりそこは教会の中で、見慣れない紋象があった。


(そうそう、うまくいく訳も無いか)


 自嘲して、再び、春樹は瞼を降ろした。今度は、ただ祈った。春樹は祈る言葉を持たない。だから、頭の中を空っぽにして祈った。初詣のときに、近所の氏神様に参って、祈るときのようにまっさらな気持ちと、真っ白な心で、無心に祈った。

 現実逃避、だったのかも知れない。


 どれほど、祈っただろう。

 不意に、笑い声が聞こえた。


『あはっ、はははは』


 さっきも聞いたあの声だ。

 陽気で陰りのない、真っ直ぐな笑い。


 目を開けるが、周りには誰もいない。


「誰か、いますか」


 おずおずと口を開くが、返答はかえってこない。静寂が教会の中には満ちている。教会の外は、何もない野原だ。教会の中に人がいないのであれば、どこからも返事があろうはずもない。

 春樹はため息を落とした。

 ため息が、波のように周囲に溶け込んでいった。



 その直後……。


 不意に、入り口のほうに気配がして、春樹は振り返った。


 目が合った。


 そこには、老人が立っていた。

 年の頃は、六十を過ぎているだろう。顔のあちらこちらには、染みが浮かび、髪は白く、黒いところは全く見当たらない。手の甲にも、年輪を重ねた皺が見て取れた。

 春樹よりも背は低いだろうが、体の中心に竹でもいられたように背筋は真っ直ぐに伸びている。

 特に印象深いのは、その眼光だった。


 人を射貫くような視線。

 視線が合うことに、気後れなどまったくしていない。しかし値踏みをしているわけではない。ただ自分がそこにいることを主張するような睨めるような視線だ。


 老人は、緑色のざっくりとした上着をかぶるように身につけ、腰に刀を佩いていた。

 

 その刀に目が吸い寄せられる。決して、あれを抜かせるような事態にしてはならない。こちらは何の武器も携行していないのだから。

 そんな焦燥感とともに、疑問も湧く。


 その刀がどう見ても、日本の文化の影響を受けたものに見えたからだ。剣ではなく、刀と表現するのがふさわしい外観。


 しかし服装は、日本らしさが欠片も見当たらない。

 どういうことなんだ、これ。


「---!」


 春樹の疑問には頓着せずに、老人が口を開いた。

 詰問口調だ。

 何を言っているのか、全くわからなかった。

 英語ではない、それはわかった。


「---------!!」


 もう一度、老人が言葉を紡ぎ出した。語尾はよりきつくなっている。

 ハングル語ではなく、中国語でもない、アラビア語でもない。ヨーロッパ系の言語に聞こえた。

 春樹は必死になって、頭の中の辞書を繰った。日本語という辞書が百ページあるとすれば、英語が五ページ程度、その他の言語とくくられたページは一ページにも満たない。


 必死になって、春樹はどうするかを考えた。

 税理士試験の受験中、残り三十分しかないのに、どうしてもすべての問題に手をつけることができないと分かったときに、優先してどの問題を解答するかを考える時と同じ速度での思考だ。

 つまり春樹の最高速度の思考だ。


「ハ、ハロー」


 冗談のように聞こえるかも知れない。

 しかし、必死になって考えて、これだ。もしかしたら、英語なら通じるかも知れない、そう思った。自分の頭の回転の悪さに情けなくなる。


 老人が首を小さく傾げる。


 通じなかった。


 どうする、どうしたらいい。

 春樹は、パニック状態に陥る。


 手振りで、害意がないことを伝えようとするが、パラパラみたいに両腕を舞わすばかりだ。どうすれば、人畜無害だと伝えることができるのか。こんなことなら、手話を覚えておくんだった、と考えて心の中で首を振った。そんなことは関係ないだろう。


 春樹の様子をみて、老人がすうっと目を細めた。老人の気配が変わった。上半身にあった老人の重心が下半身に移されたのが見て取れた。

 今の状況が非常にまずい、ということが春樹にもわかった。


 留守の家に見知らぬ男が侵入していて友好的になれるか、なれるはずがない。それこそ、世界共通の認識だ。


 老人が腰に手を流す。

 すらりと、太刀が抜かれた。


 鈍色に光る刀身。


 まずい。

 ダンスを見たとき、上手いのか、下手なのか。素人が見ても分かる。

 老人は、間違いなく剣の達人。


 動いてもいないのに、口が渇く。

 心臓が激しく脈打ち出すのが分かった。

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