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ビエントの広場は、ちょうど朝市の活況が一段落ついたところだ。その広場の脇に大きな馬車が止められていた。
その脇で、アバーテ伯爵が立っており、こちらに向かって手を振った。その脇には、シータとニコの姿があった。
その他にも、アバーテが伯都のラヌゼより、ダニエルゼの護衛ということで呼び寄せたものが、二十名弱の部下が控えていた。
ダニエルゼが手を上げると、アバーテ伯爵が恭しく頭を下げてくる。
ハルキのように小馬鹿にしてくるのも腹が立つが、馬鹿丁寧なのも気にくわない。
『ハルキ様、ダニエルゼ様のお迎えお疲れさまでした』
伯爵の隣に控えていたシータが、ハルキとダニエルゼに笑みを浮かべた。
その笑みと、仕草の美しさにはっとする。シータの美しさは、川辺に一本だけ咲いた白い花のような凜とした美しさ。誰もが目を吸い寄せられるが、気高さの中に微かな寂しさがある。それが余計に人を魅了してやまないのだ。
女から見てこうなのだから、男からすればどのように見えるのか想像がつかない。
『シータ』
ハルキの呼びかけに、戸惑いの響きがある。
『今回の公都に行くのは、本当にやめておかないか。ダニエルゼが行くことは決して歓迎されてない。公長子のルーク様は行方不明で、かなり政情は不安定だ。何が起こるか分からない。ビエントに残っていたほうがいい』
ハルキは、シータが公都に同行することが心配でならないのだ。そのため、ずっとビエントに残るように、言っているのだがシータが聞く耳を持たない。
『いえ、ハルキ様がいらっしゃるのであれば、私もご一緒いたします』
シータの答えは変わらない。
ダニエルゼは心底呆れていた。シータがそんな指示に従うはずがないからだ。ハルキが危険だというほど、シータは着いていく気持ちを固めるだけなのだ。
そのことが、このハルキという男には分からないようなのだ。
いろんなことに頭の回る男ではあるが、この黒髪の異国人は人情の機微というものに鈍い。たぶん、シータがあまりにも美しいので、余計なトラブルが起きないか気を揉んでいるのだ。ならばはっきりとそう言えばいいものの、遠回しにいうものだから始末が悪い。
『私も、ゲオルグ様やニコから、一通りの武術は習っております。ハルキ様の足手まといになるようことはございません』
シータの言葉も、ハルキの心配とはどこかズレている。この二人を見ていると、なかなかに面白い。
『大丈夫だって』
シータの言葉に、頷いたのはニコだ。ハルキに筋肉の鍛え方を聞いてから、日々鍛錬を欠かさないその体は、筋肉の壁のようだ。剣術もそこらにいる騎士に負けないレベルだと、ゲオルグが保証している。
ニコは、ビエントの街に来る前は、ラヌゼの街にいたという。カルロとはその頃からの付き合いだったはずだが、その頃のことを聞いても口が重い。
そう言えば、ハルキはカルロが死んでしまってから、カルロが横領していたお金の流れを妙に気にしていた。カルロが横領していたのに、お金を残していない上に、何かに使った形跡もないというのだ。
ダニエルゼにしてみれば、そんなことはどうでもいい些末なことだ。食べ物でも買ったんだろうと思う。
『シータのことは、僕がしっかり守るさ』
ニコがいつもの満面の笑みを浮かべて、そう請け負う。
ニコは、丈夫な薄い皮鎧を胸につけて、フードをかぶっている。そして、ゲオルグが下賜してくれたという太刀を腰に下げている。どれもしっかりと手入れが行き届いている品なのがわかる。身分はまだ奴隷のままなのだが、とてもそうは見えない。
そもそもニホン語で会話している時点で、奴隷とみる者は皆無だろう。実際、伯爵の部下達は、日常会話をニホン語で交わすダニエルゼ達に驚きの視線を送っている。
「それじゃあ、参りましょうか」
伯爵は馬車の中へとダニエルゼとハルキをうながした。シータとニコは徒歩である。
伯爵の従者のうち、五人が騎馬で付き添い、十二人が徒歩で付き従う。徒歩のものは、ニコとよく似た旅装だ。
騎馬のものは、鎖帷子を着ているようで体が若干重そうだ。
馬車からの、伯爵の号令で、公都へ向かう第一歩が踏み出された。
☆
馬車の中の空間は十分の広さがあったが、一日乗っているかと思うと気が滅入る。
隣には、ハルキ。前には伯爵が座っていた。ハルキは何かを考えているのかじっと外を睨んでおり、伯爵は唇を結んだまま足下に視線を落としていた。
道はあまり広くはないが、商隊が頻繁に通るために地面は十分に踏み固められる。左の窓を見れば、リュンクス山脈の勇壮な山並みが見え、右を見ると、すこし開けた草原が続いている。
伯都であるラヌゼまでは、二日かかる。今夜は宿場町で泊まる予定だ。
ダニエルゼは尻が痛くなってきていた。
椅子には綿が詰めてあるのだが、馬車の揺れは体全体を揺さぶってくる。舌を噛むことはないが、腹の中にある食べ物が攪拌されて気持ちが悪くなってもおかしくない。
窓から外を見ると、太陽はまだ中天にはかかっていない。
ということは、今日の道程の半分も経っていないということだ。これがあと十日以上続くかと思うと、うんざりした。
前にいる伯爵にダニエルゼは声を掛けた。
「何か面白い話はございませんか」
「そうですな」
伯爵が顎をしごいた。
「面白いかどうかは、わかりかねますが、実はずっとハルキ殿に聞きたいことがあったのだ」
「私……ですか」
外に視線を向けていた視線を、ハルキが伯爵に向ける。
「私は、伯爵領の長として、領内にあるすべての街の報告書に目を通している。ハルキ殿の作成する報告書は、群を抜いてよく出来ている。ニホン語をあそこまで使いこなす者は、他にいない。また、帳簿については、ハルキ殿がかかれているものは、見事としかいいようのない出来映えだ。ハルキ殿は、ニホン語や帳簿の知識をどこで手に入れたのだ」
「独学ですよ」
ハルキがにっこりと笑って、そう答える。伯爵は驚いたようすで、眉を上げた。
「誰かに学んではいない、と」
「そうです」
本当だろうか、とダニエルゼは思う。
ダニエルゼも、ハルキの経歴は全く知らない。ゲオルグも詳しくは知らないようなのだ。それなのに今や、ハルキはビエントの街の書面関係の作成は一手に担っていた。今回の公都への旅も、一番渋ったのはゲオルグだ。政が立ちゆかなくなる、というのだ。ハルキは大急ぎで教練書のようなものを作って、ゲオルグの授業に出ている生徒でニホン語が使えて、計算もできるものに教え込んでいた。
ハルキはこの役割をシータにやらせようと、目論んでいたようだが、肘鉄を食らったというわけだ。
「それは凄い。あれだけの書類と帳簿を独学で作るようになるとは」
アバーテ伯爵は感心して、目を細めた。
「明日、ラヌゼに着いたら、伯爵領の帳簿に目を通して、忌憚ない意見を言ってくれ」
「私がですか」
その申し出にハルキが目を丸くした。そして、すぐに首を縦に振った。
「わかりました。私がお役に立つのであれば」