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『公都にいたときの、私のまわりにいたのは、みんなアバーテみたいな奴ばっかりでさ』
敬称も付けずに、イエナは吐き捨てた。
『自分の利益のことしか考えない。本心はいわない。追従だけは、一級品。どっちを向いても、愛想笑いを顔面に貼り付けた人間しかいない』
イエナは、小さくため息をついた。
春樹は、アバーテ伯爵へのイエナの見方を心の中に留めつつ、春樹自身はそれを鵜呑みにしないよう鍵括弧つきで記憶に残すこととした。イエナはアバーテ伯爵のことを、表面上だけでイエナのことを追従する、というようにを言っているが、それが本当なのかわからない。言ってしまえば、イエナの視点である。
春樹から見たところ、それほど伯爵は不誠実には見えなかった。
それにだ。
たとえ自分の利益のためだけに伯爵が動いていたのだとしても、利益が合致している限り裏切らないのだ。地位のある人間の助力がもらえるのであれば、それに越したことはない。
『ほんと、ぞっとしない。そんなところに、誰が喜んでもどるかいな。二度といきたないわ』
イエナは、頬を震わせながらそう呟いた。春樹はその言葉を受けて続ける。
『大丈夫。一人では行かせない。私も一緒にいく』
春樹は力を込めて、そう言った。
たぶん、イエナは純粋すぎる。傍らに必要なのは、打算的な計算ができる小ずるい人間だ。春樹がイエナを守らなければいけない。そしてイエナの純粋さと、目を見張るような行動力を損なわなければ、きっと何かを成し遂げられる。そんな予感がするのだ。
『僕も一緒にいきます』
ニコが春樹に続いてそう宣言すると、シータが体育座りを崩して立ち上がった。
『ハルキ様が行くというのならば、当然、私もご一緒します』
手を高く上げて、声を上げたシータ。それに釣られるように、春樹達も立ち上がった。
イエナは少し考えているようだった。
だが、三人の視線をしばらく受け止めてから、よし、と手を叩いた。
『わかった、公都に戻ろか』
決意を込めた眼差しで、イエナが三人を見つめた。
『明日、アバーテ伯爵には公都に戻るって話すわ。けどな、その前に』
イエナは神木の正面に改めて背筋を伸ばして立った。
『ここ、光の聖霊の神木の前で、みんなでそれぞれの誓いを立てようや。私にあれだけ言ったんやから、志のひとつやふたつあるんやろ』
その言葉に、わかったと春樹が頷くと、ニコとシータも頷いた。
『じゃあ、まず私から』
イエナは、大地に視線を落としてから、顔をあげて神木に右手を当てた。
花びらがイエナを祝福するように、天から舞い降りる。数え切れない桜の木々が、イエナを見つめて言葉を待っているかのようだった。
イエナは空気をゆっくりと吸って、ゆっくりと吐きだした。
そして朗々と詩を吟じるように声を上げた。
『我、ダニエルゼ・ソルは光の聖霊の御前にて誓わん。ソル公爵領に住まう領民の幸福と安寧に尽くし、我の命は、この誓いのためにのみ燃やされる。行動しないことを持って、意思表示とすることなく、自らの行動をもって垂範する。十年後の公爵領ではなく、千年後の公爵領に責任を負うことを誓う』
イエナの誓いの内容に、春樹は少し気圧された。軽々しい気持ちで言って良い内容ではなかったし、心の底からの思いを込めて、イエナが言葉を並べているのが分かったからだ。
イエナは誓いを終えると、幹から手を離した。
ではと、ニコが桜の幹に手を当てる。
『僕は光の聖霊に誓う。公都ソールにて、騎士学校に入り、騎士となることを。そして僕の剣が、ソル公爵家の刃となりて、僕の盾が、ソル公爵家の壁とならんことを願う。僕の全てを掛けて、ソル公爵家が治める土地に泰平を築こうと思う』
ニコが前から話していた思いだ。
まるで誰か、ここにいないものへ約束を果たすかのような、澄んだ思いだった。ニコはあの夏の日から、背負っているものがある。だけど、それが具体的にどのような形をしているのか、春樹達にニコは見せてくれない。
よほど、真剣に宣誓したのか、ニコが肩で息をしながら神木から一歩引いた。
次は、シータの番と思い、目を合わせる。シータが春樹に向かって、どうぞ、と促してきた。
春樹は、イエナとニコに習って、桜の木に手を当てる。
太い幹から、神木の息づかいが聞こえてくるような気がした。足の裏からは、大地の鼓動が響いてきているかのようだ。空からは、祈るように桜の花びらが降っている。
『私、谷川春樹は、この世界、この国の大地におわすすべての聖霊の御名に向け、その御前にて、誓う。谷川春樹は、生涯を掛けて、この世界、この国にある奴隷制度を撤廃して、すべての人が平等に生き、平等に扱われる世界を作ることを目指さん』
思ったよりも、すらすらと言葉が出た。なにしろ、ここ数ヶ月そのことばかりを考えていたからだ。カルロの死を見つめた日から、春樹は自分が生きていく理由ばかりを捜していた。日本にいた頃は、ついぞ考えたことがなかったことだ。なんとなく、やることが決まっていて、なんとなく真面目にやっていれば、なんとなく生活できていた日本では、生きていく理由なんて求めなくても良かった。
だが、見知らぬ国、徹底的に異なる習俗、黒い瞳のいない人種、その中でたった一人で生きていくため、どうしても今日を生き明日につなげるための柱が必要だった。
笑うために、がんばるために、目標が必要だったのだ。
だからこそ、春樹は一生掛かっても、決して到達できないであろう、誓いを立てた。すべての人が平等に生きることなど、元々いた世界はもちろん、日本でも実現できていないことだ。
この目標に向けて走っていく途中でいくつもの障害、或いは目標と手段とのジレンマは起こるだろう。ただ、命を掛けるにはこれ以上ないものだ。
ありがたいことに、春樹には、この国の人達が持たない会計と税の知識がある。それを最大限に活用すれば、きっと何らかの貢献ができるだろう。
会計はともかく、税の知識が一体何になるのか、自分でもわからなかった。何しろ、春樹が勉強をした税法は、日本だけで通用するものなのだ。
だが宣誓をして、腹が据わった。
税法を作る側になればいいのだ。そして、自分の目的にかなう、税体系を作り上げればいい。業界団体の利益を代表した議員のせいで、つぎはぎだらけになった租税特別措置法を持つ日本の税体系よりも、きっといいものが作れる。
それから、誓いの相手を光の聖霊に限定しなかったのは、とっさの判断だ。一つの聖霊だけに宣誓することに怖さがあったからだ。特に意味はないのだけれど、根本的な春樹自身の節操のなさと直結しているような気がした。
春樹は宣誓を終えて、神木から手を離した。
目の前を、桜の花びらが、ゆっくりとゆれながら舞い降りていく。
その春樹が手を置いていたのと同じ場所に、シータが手を伸ばした。シータが手を当てるには、少し高い場所。
シータは、意識的にそこに手を置いたようだった。
春樹の視線と、シータの視線がはっきりと交わった。
(何を誓うんだろう)
イエナ、ニコはなんとなくではあるが、予測がつくような内容だった。
しかし、シータについては、全く想像が出来なかった。春樹の手伝いをしてくれたり、共用語の勉強についてくれたりしたが、すべてシータは受動的だった。唯一、考えられるのは兄を捜すという誓いだろうか。
シータは軽く春樹に頭を下げると、口を開いた。
『私の誓いは、ダニエルゼ、ニコ、そしてハルキ。それぞれの誓いを見守ること。そして、彼らを手伝い、誰かの心が折れそうな時に、誓いを思い出させる役割を担うことを誓います』
簡潔な誓い。
しかしその中身に、春樹は驚かされた。受動的なようにも思える内容ではあるが、そうではない。
三人の誓いを認めつつ、その誓いの達成を手助けすると言っているのだ。そしてもし三人の誓いが果たされなかったとき、シータもその失敗に責を負うことになるのだ。
きっついなぁ、というイエナの声が聞こえた。
シータの宣誓は短いものだったが、春樹の心に強く残った。
そしてシータの思いに応えられるよう、努力をしないといけないと思った。
たった四人だが、心からの誓いがここに立てられた。
他に誰も見ることがない誓いだが、お互いの中ではとてつもなく重いものだ。表現が違えど、結局四人が目指していることの根本的なところは一緒なのだ。
それはこの世界を良くしたいという思い。
その目標に向かって、お互いに支え合い、道を歩んでいくことを誓ったのだ。
ゴールが遙かに遠すぎてかすんでしまいそうだが、その方角だけは間違わずに、足下をしっかり見て歩いて行く。
方向さえ合っていれば、小さな一歩でも、ゴールに近づく一歩となるのだ。
大きな桜の木は、枝をひろげて温かく四人を見守ってくれているようだった。
シータが振り返ると、少し得意げに笑った。
イエナがちょっと渋い顔で、頭をかいている。ニコは音が鳴らない程度に拍手をしている。春樹が代表して、前に出た。
『気を引き締めて、がんばるよ』
『私もがんばります』
強い風が吹いて、土の上に落ちていた花びらも舞上げる。
すると、前が見えなくなるほど、桜吹雪が現れる。
空気までも桃色に染まりそうな桜の園で、イエナ、ニコ、シータと交わした約束を春樹は心に刻む。
イエナは、すっきりとした顔をしていた。
ニコは真面目腐って、唇を噛みしめていた。シータは、飄然とした風で春樹のとなりに立っている。
春樹は自分が今している顔を想像してみる。案外、春樹もニコと同じように真面目な顔をしているような気がした。
桜は言葉をしゃべらない。
ただその存在だけで、春樹達の前途を言祝いでくれていた。
時代が動き始める音が、聞こえたような気がした。