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木の幹に、耳を当てるとかすかに耳たぶの辺りが温かくなったような気がした。
力強く脈打つような、そして何かが流れるような、そんな音が耳の奥にある鼓膜を叩いた。生まれる少し前、母の胎内にいたときに聞いていたような、原始的な記憶を呼び起こす音だ。
春樹のまねをして、イエナも幹に耳を当てた。
『……ほんとに聞こえるもんだな』
『だろ』
イエナが春樹の隣で、目を閉じて耳を澄ましている。
『イエナ』
春樹はほとんど無意識に、次の言葉を口にしていた。
『公都に戻ってくれないか』
イエナは驚くでもなく、躊躇うでもなく、目を閉じたまま静かに尋ね返した。
『どうして帰ってほしいんだい』
口調と場面は違えど、さっき伯爵に問い返したのと同じ内容だ。
『理由は二つある』
『なんだい』
『一つ目は、私のため。二つ目は、イエナのため』
イエナが口元に小さく笑みを作って見せた。続きを話せということだろう。
シータやニコも、こちらに意識を向けているのが分かる。
『まず一つ目。私はこれから奴隷解放のために、動こうと思っている』
『ほぅ』
『いいですね』
『そんな……』
少し呆れたような、感心したような、慌てたような、三様の反応があった。
『ビエントで申請書類を作ったり帳簿を見たりしているだけでは、その目標は達成できない。だからイエナに公爵家の地位をしっかりと確立してもらい。そして私を重用してもらいたいんだ。もちろん、最初から公爵家の中心というわけにはいかないだろうから、まずは雑用でいい。会計的なことなら、かなり役に立つ人間だと思うぞ。前にイエナもそう言ってくれてただろ』
この世界は、いやこの国の権力構造では、日本のように草の根活動を大きくして賛同者を増やし、政治家に政治的な圧力をかける、といった方法をとることはできない。
奴隷解放という、社会構造そのものを転換するためには、権力者側に自分自身が入り込むしか方法がない。
最短ルートが目の前にあるのに、使わないのは、奴隷解放という人生をかけた目標がただの題目になってしまう。
『つまり、ハルキの目的のために、私を利用しようってそういうんだね』
『そうだ』
ここで隠しても仕方がない。元より、イエナの言うとおりなのだから。
イエナがくくっと喉を鳴らした。
『そのはっきりした物言いがいいな。伯爵の奴、自分のために私をけしかけようとしてんのに、そこをはっきりさせないから腹が立ったのさ』
イエナは目を開いた。鋭い意志の力が宿った瞳が、春樹の目の前にあった。イエナは、じっと春樹を見つめてきた。
『けどね。私も自分の持ち出しだけじゃあ、その話には乗れないさ。二番目の話、聞かせてくれ』
『まず確認したい。そもそもイエナが公都に帰れない理由というのは、公爵の命令だから、というのではないだろ』
『どうしてそう思うんだい』
『イエナは人の命令で自分の行動を決めたりしないからだ』
『へぇ、そうかい』
いまや、イエナの瞳は炯々と光って、春樹の心の中をすべてを見通そうとしていた。
『イエナは、人からの命令ではなく、人の願いでしか行動しない。イエナは、ここで修行をするように頼まれたんだろ。そしてその理由にイエナも納得がいっている。だから、帰らない。そうだろ』
すべて春樹の憶測。
だが、イエナと一緒に過ごしてきたからわかる確信だった。
『もし、イエナが公都に戻ったら、公都は混乱する。どこまで飛び火をするかは、今の私の知識ではわからない。ただ、ソル公爵家が混乱することは、ソル公爵領の混乱と同意義だ。そうなると、現状、他の公爵家と揉めている国境の問題や、貿易関係のやり取りは意志決定機関の欠如で暗礁に乗り上げるのは、火を見るより明らかだろう。そうすると、公爵領の経済は停滞するし、結果商人達の足がソル公爵領に向かなくなって、物流量も減ってしまう。地方の生産物を、都市に運ぶ流れが滞ると、食べるものに苦しむものも現れる。それだけなら、まだ良い。イグニスやウェントゥスは、もともとソル公爵領を狙っている節がある。ウェントゥスはビエントを実質的に統治しているようなものだしな。ここでソル家の混乱が発生すれば、具体的な武力行使を始める可能性もある。となると、公爵領の領民に直接的な被害が出る』
そこまで話したところで、春樹はイエナの反応を見た。
『イエナは、そうなることを恐れているんだろ』
イエナは、桜の木から耳を離すと、その場にペタリと腰を下ろした。そうして、大きな桜の木に背中を預けた。
そうして、春樹、シータ、ニコと順番に見回して、隣に座るように促した。
春樹はむき出しの土の上に、足を投げ出して、桜を見上げた。
桜は空を包むように、長く枝を伸ばして、ひらりひらりと花びらを落としている。
シータは体育座りをして膝を抱え、ニコは桜の木の前で大の字に寝転がった。
『大体は、間違っていねぇな』
イエナは、春樹のほうを見ずに答えた。
『で、それがどうして駄目なんだ』
悪くない理由だろ、そう言外にイエナは続けている。
『駄目さ。駄目に決まっている』
春樹は断言した。イエナは口をすぼめて、不満げに喉を鳴らした。
『なんか、ハルキにそう言われると、腹立つな』
『駄目な理由はなんですか』
イエナからではなく、ニコから横やりが入った。
『イエナが、満足していることが駄目だ』
『満足しているって、何に?』
問い直したのは、シータだ。
イエナは、春樹の言葉に思いあたるところがあったようで、口を閉じたままだ。
『つまりさ。何もやらないことに、イエナが満足してしまっているってこと。自分では何も行動していないのに、その結果が良い方向になるって、勝手に信じて、行動しない自分に満足している』
『何もやらないことが良い方向に転がることはあんだろ』
イエナが反論したが、その言葉は言い訳がましい。
『何もやらなくて良かったように見えても、それは、イエナが行動したときの結果を越えることはない』
イエナは黙っている。
ニコが上半身だけを起こして、こちらを見た。シータは膝を抱いたまま、体を揺らしていた。
桜の木は、四人を見守るようにただ無言で、花を散らしていく。
『兄が優秀なのだとしたら、どうして力を合わせて良くしようとしない。兄一人でやったほうがうまく行くなんてのは、なにもしないことへの言い訳だろ』
事実の指摘だが、なるべく批判するような響きがないように春樹は気をつけた。正論はときに人の心を強く傷つけるからだ。
『いつかイエナは、私に言ったよな。志を持てって。いまこそ、イエナが志を持つときなんじゃないか。何もしないことを自分に課して、日和見を決めこんだりしたら、イエナ自身が、きっと後悔する。行動したほうが、イエナの望む国になる。そうだろ』
そう言ってから、自分の物言いが詭弁であることに春樹は気がついた。イエナが、行動したことにより悪化する可能性を完全に排除していたからだ。
少し悩んでから、春樹は付け加えた。
『もしかしたら、イエナ自身が行動することによって、事態が悪くなる可能性はある。けれど、何もしないで悪化した場合とどっちが納得できるだろう。自分の行動で、ソル公爵領の全ての領民の生活を壊してしまうかもしれないという怖さがあるのは分かる。でも、何もしないでもたらされた結果と、行動を起こした結果。どっちが受け入れられるんだ』
イエナはしばらく黙ったままだった。
そのまま天を仰いで、じっと花びらを見つめている。桜の木は、大きく威厳があったが、一方ですべてのものを包み込むような包容力があった。
いくつもの花びらが、雪が舞うように降ってくる。
そのうちのいくつかは、イエナの髪について、髪を鮮やかに彩った。
イエナは、舞い落ちる花びらを手に一枚握った。
そして口を開いた。
『ハルキの言うとおり。本当は怖いんだ』
イエナは身震いをして、春樹のほうに向き直った。




