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「まず、考えないといけないことはなんだ」
意識して、声に出した。
空を見上げる。
「時間はわからないけど、まだ昼だ」
太陽は、中天にある。
ここが異世界であるかどうか、といった問題はひとまず横に置くこととする。
そして、春樹が知っている常識で判断する。
「太陽が高いということは、夜になるまでには時間があるということ」
夜になるまでに、寝る場所を確保しないといけない。
季節は、初夏といったところだろうか。肌寒いことはないが、暑くもない。冬ではないのはありがたいが、夜はかなり冷え込むだろう。凍死するまでの気温になるのか、それは分からない。
そうだ。
春樹は野宿をしたことがない。満天の星空のもとで、眠りについたことは一度もないのだ。テントで寝たことはあるが、野宿とは比較にならない。
雨はしのげず、霜も防げない。空気も密閉されていないから、自分の体温による保温も見込めない。
どんな状況になるのか、全く分からない。頭でいくら考えても、体験してみないと分からない。
ただ、と、春樹は、視線を目の前の建物に向けた。
黒ずくめの建物だった。
ちょうど、お椀を伏せたような形の扉がある。よく見ると、丸い輪の取っ手が見える。引くのか、押すのか。
取っ手の位置から見て、住んでいる人は、春樹と同じような体格だろう。
人……本当に、人間があそこに住んでいるのか。
そこまで思考を巡らせて、春樹は頭を振った。
(まて、私の考えは明らかに飛躍している)
確かに、突然、こんな場所に現れたのは事実だ。これが夢ではないとすれば、今の状況が異常事態なのは間違いがない。
しかし、その他は、いたって普通ではないか。
太陽が二つあるわけでも、空に竜が舞っているわけでもない。ただ、知らない場所に突然きた、という事実があるだけだ。
今までしたことのない経験をして、少しナーバスになりすぎている。
辛いケーキを食べたからといって、ドーナツまで辛くなったと考えるのは間違いだ。
ここは、春樹が住んでいた日本とは地続きの、或いは地続きではないかも知れないが、海を渡ればある場所だ、と考えることとする。
そうしなければ、行動の基準ができない。
人と会ったときに、挨拶をするものなのか、頭を下げるべきなのか、笑顔を見せればいいのか、そんな簡単なことさえ、決めることができなくなる。
だから、決めた。
普通に、日本にいるときのように行動しよう。
春樹は、少し離れた場所にある、建物に目を向けた。
あの建物は、一見、教会のように見えるが、山小屋のようにも思える。それ以外の可能性は、捨てよう。
今、春樹は、道に迷っている。いや、端的にいえば、遭難している状況だ。
そんな中で、目の前に建物があったらどうかるか。
答えは一つ、道を尋ねる、だ。
春樹は、拳を握りしめた。爪が、手のひらに食い込むのがわかる。
(簡単なことだろ)
そう簡単なことだ。
一歩二歩と、足を交互に前に出して、建物の前に立って、コンコンコンと三度ノックすれば良いんだ。コンコン、と二度では駄目だ、それはトイレだ。
深く空気を吸い込み、春樹は建物に向かって歩き出した。
建物が、近づいてくる。
当たり前だ。
その当たり前のことが少し怖い。
近づくと、黒い材木を重ね合わせて、建てられた建築物であることが見て取れた。基礎の部分には、横木が貼られており、窓はあるがガラスははめられていなかった。
屋根に特徴があった。
屋根が、木切れを敷き詰めたものだったのだ。春樹の持っている屋根という印象は、瓦葺きが大半だった。観光で白川郷に行ったときに、茅葺きの屋根を見たが、板葺きの屋根は、ぱっと思いだせない。
さて、と春樹は腰に手を当てた。
ついに、というには少々大げさだが、建物の前に春樹はたどり着いた。
ここまで来て、ようやく目に入ったのだが、建物の脇には、いくつか石作りの墓があった。
最初に推測したとおり、教会なのかも知れない。その墓に書いてあるのは、日本語ではない。遠くて読み取るまではできないが、アルファベットが書いてあるように見えた。
文字があるなら、大丈夫。
そこには、理性があり、文化がある、と思いたい。
春樹は、覚悟を決めた。
そして、右手を軽く握って、扉をノックした。
低いノックの音。
想像したよりも、小さな音だった。扉が湿っているのだ。これでは中に人がいたとしても、気がつかないかも知れない。
春樹は、もう一度扉を叩いた。
今度は、さっきよりも一段と強く。
低い音なのは変わりがないが、周囲に響き渡るような大きな音がした。
だが、中からは何の反応もなかった。
留守なのかも知れない。
これ以上、叩くのは少し礼儀に反するように春樹には思えた。
ならば、と、扉を押してみると、スッと奥に向かって開かれた。
少し躊躇って、春樹は唾を一度飲み込むと、そのまま力を込めて扉を押した。
そこは、想像通り教会のようだった。
明るい場所から、暗い場所にいきなり入ったために、目が細くなるのが自分でわかる。空気も、少しひんやりとしている。使われていない建物や部屋に特有の、かび臭さがない。住んではいないかも知れないが、誰かが出入りはしているのは確実だろう。
正面の通路の左右対称に、長いすがならび、奥には白い教卓があった。
そして正面に掲げられているのは、この建物の屋根の上と同じオブジェ。
通常の教会であれば、十字架がある場所にそれはあった。