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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第三章
46/103

46



 飛び込んだ部屋は、まだ火はあまり回っていないようだった。だが、白い煙が部屋に充満していて視界が十分ではなかった。

 テーブルが二つと、壁側に粗末な作りの二段ベッドがある。


 煙が目にしみる。


 部屋の中には、5人いた。

 立って動いているのが、2人。

 見たことのない若い男だった。


「助かった」

「ありがとう」


 2人は咳き込みながら、すぐに外に出て行った。


 あと3人は倒れていた。

 シータが一番手前にいた。うずくまって動けなくなっている小さな男の子を抱きかかえるようにして、外に向かう。


 春樹は残った2人を助けに掛かる。

 煙はまだ薄く十分間に合うと、春樹は判断した。


 後ろに続いたニコと視線を交わして、お互いに1人ずつを抱きかかえてから、肩を貸して引きずるようにして、ニコが開けた壁に向かった。


「何とか」


 なった、と言いかけて、春樹はニコが肩を貸している人の顔を見て息が止まった。

 それは、ニコも同じだった。

 目を開けたまま、どちらも瞬間、目を瞬いた。


(イエナがいない)


 春樹は、相手が肩を貸しているのが、イエナだと考えていたのだ。それはニコも同じだったようだ。

 2人で顔を見合わせて絶句。


 春樹はすぐに意識を切り替えた。

 肩の男を外に寝かせるとすぐに建物に飛び込んだ。


『イエナッ』


 喉が壊れるかのような、絶叫。しかし返事はない。


 部屋の中の煙が濃くなっている。

 しかも天井付近の煙が黒くなっている。


(この煙はまずい)


 本能的にそう察する。

 春樹が思い出したのは、小学校でやった避難訓練。水に濡れた袖を口に当てる、そしてすぐに四つん這いになった。


 これから視界が悪くなるのは、明白だった。

 部屋の中に、イエナの姿は見えない。


 髪が燃えだしそうな熱気が、春樹の顔に吹き掛かってくる。

 サウナどころの話ではない。

 二階の部分だろう、裂けるような音ともに何かが崩れ落ちた。建物全体がいつまで形を保つかわからない。


 低くした体勢のまま、目を細める。

 すると、部屋の奥に薄く開いた扉の先、廊下の床に白い何かが見えた。


 手だった。


 誰かが、そこに倒れているのだ。


 距離としては、ほんの3メートル程度だ。

 だがこの状況では絶望的に、遠く思えた。


 イエナかどうかも分からない。だが、逡巡している時間はなかった。


 もしイエナではなくとも、助ける。


 春樹は、生存の一縷の望みを掛けて部屋の奥に、四つん這いのままで向かう。

 そこから戻ってこれるかも分からない。手をのばすたびに、死に向かって近づいていく、そんな感覚。

 黒い煙はますます濃くなって、天井から下に這うように降りてきていた。


 たどり着けないのではないか、そう思えた距離を何とか春樹は詰め寄った。


 はたして、そこに倒れていたのはイエナだった。


『イエナ』


 すがりつくようにイエナを抱える。

 すると、薄くイエナが目を開いた。


『アホ、さっさと逃げぇ』


 弱々しい声だ。

 顔は煤にまみれており、蜂蜜色の髪の毛が黒く焦げていた。


 その顔を見て、春樹はイエナをなんとしても助けたい、と思った。


『一緒に逃げるぞ』


 春樹はイエナを右手でしっかり抱える。

 そして濡れた服に、イエナの口元が当たるようにする。煙をイエナが吸い込まないようにするためだ。

 だが、この態勢で動くのはかなり難しかった。


 一歩、イエナを動かすのに、とてつもない力がいる。

 煙は、どんどん視界を悪くしてしまう。


 もう1メートル先もはっきりと見えない。方向ははっきりと分かっているが、進むことができなかった。


 体力の限界がきていた。


『ハルキ様』

『ハルキ』


 シータと、ニコの声が近くで聞こえる。

 しかし煙で、春樹の場所がわからないようだった。


 ここだっ。


 そう叫ぼうとした。だが、喉がつぶれてしまったのか、春樹の喉から声が発せられない。

 2人からの呼びかけは続いてるが、この濃い煙だ。

 全く見えないに違いない。


 春樹は声を出そうとするが、かすかな息が喉から出てくるばかりだ。

 そもそも春樹はさっきから空気を吸っていないのだから、声を出せるはずがなかった。


 焦げついた空気がもう肺を満たしてしまっている。


 シータの足音が、近くに聞こえるのに、助け呼ぶこともできない。


 それにニコとシータまで、煙に巻かれてしまっては意味がない。


 春樹は、胸に抱いたイエナを見る。

 どうにかして、イエナだけでも助けられないか。


 春樹の胸の中に満ちたその思いは、願いではなく、祈りだった。


 瞬間。


『ふふっ』


 吐息のような声が、春樹の耳に届いた。

 かと思うと、唐突に視界がひらけた。


 突然、風が外から部屋の中に吹き込んできたのだ。

 熱風ではなく、爽やかな涼気をはらんだ清涼な風だ。


 春樹は煙が晴れた先にいたニコとシータと目が合った。

 そこにあったのは、何が起きたのか理解できないという目をしたニコと、歓喜の色を浮かべた瞳のシータ。


 部屋から煙が晴れたのは、ほんのわずかな時間だったが、それで十分だった。

 ニコがその巨体を揺すって、春樹を抱え上げると、シータがイエナを抱きとめた。


 背中に煙と炎が迫る部屋から、春樹はニコに肩を貸されて逃げ出した。

 隣には、汗を顎からしたたらせたシータと、肩で息をするイエナ。


 まさに、地獄からの生還だった。


 4人の足音が、建物から駆け出すと同時に、地鳴りのような響きを周囲にまき散らしながら、建物が崩れ始めた。


 炎に包まれて、いよいよ盛んに燃え始めた建物の残骸を見ながら、春樹は胸をなで下ろした。

 早鐘のように心臓が、胸の中で躍っている。

 だが、それも今は心地良かった。



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