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春樹がデニスの食堂から目的の物を持って戻ってきた時には、すでにイエナの姿は建物の前にはなかった。
シータが春樹の下に駆け寄ってくる。
「イエナは、春樹を待てないと言って、建物に飛び込んで行きました」
「分かった」
「止められなくて、申し訳ありません」
燃える建物の前で、シータが目を伏せる。
その春樹の耳に、建物中からイエナの大きな声が届いた。
「皆さん、聞いて下さい。私が来たからには、もう安心です。落ち着いてください」
燃え落ちようとする建物の中なのに、イエナの声は驚くほどに落ち着いていた。
遠巻きに見物している野次馬から、歓声が上がった。
ただ見物するだけで誰も、イエナの後に続こうともしない。
一方で、建物の中からは、男の声も聞こえてきた。
「てめぇ一人で来て、どうなるってんだ」
罵倒だった。だが、イエナは言い返すでもなく、冷静に言い聞かせているようだ。
だが、春樹には分かっていた。
イエナが、何にも考えずに突っ込んだことを。
間違いなくイエナは、自分がどのように脱出するかも考えていない。入るときは、水をかぶっていたから、何とかなったのだろうが、帰りに水桶はない。
とにかく、助けたい、だから自分でできることは全てする。だが、あまり先のことまでは、考えない。
それがイエナだ。
「今のイエナにしばし待てはきかなかったか」
「無駄でした」
「仕方ない」
春樹はシータと視線を合わせた。
そして重大なことを告げる。
「もしかしたら、今から私は命を落とすかも知れない」
シータは、春樹の言葉にほんの少しの間、目を閉じた。
そして、目を開いた時には、その瞳に覚悟が宿っていた。
「手伝ってくれるか、シータ」
「イエナに命をかけることがあるように、私にも命をかけることがあります」
「よし」
春樹はシータとうなずき合う。
春樹にも命をかけると、決めたことがある。
それは、あの暑い日。カルロの無残な亡骸を見たその日に決めたこと。
イエナに言わせれば、志。
この国から、奴隷制度を撤廃する。
そのために、自分の命を使うと、春樹はそう決めた。
もしかしたら、今から行うことは、奴隷制度の撤廃とは直接関係がないかも知れない。だが、奴隷という身分のせいで差別を受けているのであれば、それを助けないではいられない。
春樹はお腹の底に、意志という名の力を貯めた。その力を全身に行き渡らせたところで、地面を思い切り踏みつけながら、建物の裏へと回った。
そこには、ニコが待っていた。
焦燥の色が、顔に滲んでいる。
「遅いです」
「悪い」
短く答えて、春樹は息をついた。
肺の中の空気が熱を帯びて、喉を焼いている。走っている時間は長くはなかったが、普段以上に疲れている。
緊張か或いは焦りが、必要以上に体に負担を掛けているのが分かった。
春樹は唾を飲み込んで、肩で呼吸をすると、目の前の建物を見据えた。
熱を孕んで、壁がどす黒く染まっている。だが表の扉や壁のように、木が火を吐きだしていない。
「いける、かも知れない」
春樹はこわばっている太ももを両手で叩いた。
自分を鼓舞している。
そう自覚する。
自分から、死に向かって飛び込もうとしているかも知れない。いや、間違いなく死神の懐に飛び込もうとしているのだ。
「この辺りに水を掛けました」
ニコが指で指し示した。
そこの壁は大量の水に濡れて、湯気を吐きだしていた。
「なるほど、それで乗り込むわけですね」
ニコは、春樹の手元を見つめた。
春樹の手には、両手使いの大きな斧が握られている。
デニスの食堂で薪を割るのに、使っていたものだ。
柄を握る手に力を込める。
「イエナッ」
春樹は、腹の底から叫び声を上げた。
こんなに大きな声を出したのは、生まれて初めてかも知れなかった。
「ハルキッ」
建物の中から、くぐもった声が聞こえた。
だが、それはすぐに咳き込むようなあえぎ声にかき消される。
「どこだ、イエナ」
春樹は、壁をどんどんと叩いた。
手がひりつくような、熱を感じたが、気にしていられなかった。
そのまま何度も叩く。返事がない。胸を内側から噛まれるような、苛立ちがこみ上げてくる。
『イエナッ。おい、どうした』
不気味なまでの静けさがあった。木が焼ける音が、遠くになる。
イエナの声がする一番近い壁を壊そうと思っていたが、もう待っていられなかった。
春樹は、斧を担いで力を込めて壁に切りつける。
堅い音がした。
思い切り斬りかかったのに、跳ね返されたということがわかって春樹は愕然とした。
気を取り直して今一度、斬りかかるが、やはり堅い音がして斧が弾かれた。
炎はますます勢い増している。
なのに、目の前の木の壁はまだ固いのだ。
しかし、と。
春樹は周囲に視線を走らせた。火を噴いている壁は今にも崩れそうであり、そこを斧でくずしてしまうと、建物全体が崩れてしまいそうだ。
かといって、燃えていない部分は、まだ固い。
(どうしたらいい)
動揺して考えがまとまらない。額に滲んだ汗が蒸発するのを感じた。
『代わりますっ』
春樹の思考を寸断するように、ニコが春樹の手から斧をむしり取った。
そして、高く斧を掲げると、からたち割りで壁を切りつけた。
みしりと、鈍い音を壁が立てた。
春樹が二度切りつけても、びくともしなかった壁に亀裂が走った。
間髪入れずに、ニコが斧をもう一度たたきつつける。
コーラの栓を抜くような音がしたかと思うと、壁が崩れる。ありがたいことに、建物は崩れない。
斧は完全に壁を貫通していた。
熱風が吹き出してくる。
ニコが太い足で、壁を蹴ると木片が砕け散った。そこにひと一人が通れそうな穴が開いた。
急がないといけない。
春樹が水をかぶろうとしたときに、脇を駆け抜ける影があった。
シータだった。
シータの髪はすでに重く濡れているのが分かる。壁を壊すことを予測して、水をかぶっていたのだ。
少し残っていた壁を足で蹴破ると、煙が渦巻いている建物に駆け込む。
その背中には、何の躊躇いもない。
(酸素が供給されて、火が強くなるかも知れない)
春樹も、もはや躊躇うことはしなかった。
水をかぶると、肺を焼かれないように、息をとめてシータの後ろに続いた。