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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第三章
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 春樹がデニスの食堂から目的の物を持って戻ってきた時には、すでにイエナの姿は建物の前にはなかった。


 シータが春樹の下に駆け寄ってくる。


「イエナは、春樹を待てないと言って、建物に飛び込んで行きました」

「分かった」

「止められなくて、申し訳ありません」


 燃える建物の前で、シータが目を伏せる。


 その春樹の耳に、建物中からイエナの大きな声が届いた。


「皆さん、聞いて下さい。私が来たからには、もう安心です。落ち着いてください」


 燃え落ちようとする建物の中なのに、イエナの声は驚くほどに落ち着いていた。


 遠巻きに見物している野次馬から、歓声が上がった。

 ただ見物するだけで誰も、イエナの後に続こうともしない。


 一方で、建物の中からは、男の声も聞こえてきた。


「てめぇ一人で来て、どうなるってんだ」


 罵倒だった。だが、イエナは言い返すでもなく、冷静に言い聞かせているようだ。


 だが、春樹には分かっていた。

 イエナが、何にも考えずに突っ込んだことを。

 間違いなくイエナは、自分がどのように脱出するかも考えていない。入るときは、水をかぶっていたから、何とかなったのだろうが、帰りに水桶はない。

 とにかく、助けたい、だから自分でできることは全てする。だが、あまり先のことまでは、考えない。

 それがイエナだ。


「今のイエナにしばし待てはきかなかったか」

「無駄でした」

「仕方ない」


 春樹はシータと視線を合わせた。

 そして重大なことを告げる。


「もしかしたら、今から私は命を落とすかも知れない」


 シータは、春樹の言葉にほんの少しの間、目を閉じた。

 そして、目を開いた時には、その瞳に覚悟が宿っていた。


「手伝ってくれるか、シータ」

「イエナに命をかけることがあるように、私にも命をかけることがあります」

「よし」


 春樹はシータとうなずき合う。


 春樹にも命をかけると、決めたことがある。

 それは、あの暑い日。カルロの無残な亡骸を見たその日に決めたこと。

 イエナに言わせれば、(こころざし)


 この国から、奴隷制度を撤廃する。


 そのために、自分の命を使うと、春樹はそう決めた。

 もしかしたら、今から行うことは、奴隷制度の撤廃とは直接関係がないかも知れない。だが、奴隷という身分のせいで差別を受けているのであれば、それを助けないではいられない。


 春樹はお腹の底に、意志という名の力を貯めた。その力を全身に行き渡らせたところで、地面を思い切り踏みつけながら、建物の裏へと回った。


 そこには、ニコが待っていた。

 焦燥の色が、顔に滲んでいる。


「遅いです」

「悪い」


 短く答えて、春樹は息をついた。

 肺の中の空気が熱を帯びて、喉を焼いている。走っている時間は長くはなかったが、普段以上に疲れている。

 緊張か或いは焦りが、必要以上に体に負担を掛けているのが分かった。


 春樹は唾を飲み込んで、肩で呼吸をすると、目の前の建物を見据えた。


 熱を孕んで、壁がどす黒く染まっている。だが表の扉や壁のように、木が火を吐きだしていない。


「いける、かも知れない」


 春樹はこわばっている太ももを両手で叩いた。

 自分を鼓舞している。

 そう自覚する。


 自分から、死に向かって飛び込もうとしているかも知れない。いや、間違いなく死神の懐に飛び込もうとしているのだ。


「この辺りに水を掛けました」


 ニコが指で指し示した。

 そこの壁は大量の水に濡れて、湯気を吐きだしていた。


「なるほど、それで乗り込むわけですね」


 ニコは、春樹の手元を見つめた。


 春樹の手には、両手使いの大きな斧が握られている。

 デニスの食堂で薪を割るのに、使っていたものだ。


 柄を握る手に力を込める。


「イエナッ」


 春樹は、腹の底から叫び声を上げた。

 こんなに大きな声を出したのは、生まれて初めてかも知れなかった。


「ハルキッ」


 建物の中から、くぐもった声が聞こえた。

 だが、それはすぐに咳き込むようなあえぎ声にかき消される。


「どこだ、イエナ」


 春樹は、壁をどんどんと叩いた。

 手がひりつくような、熱を感じたが、気にしていられなかった。

 そのまま何度も叩く。返事がない。胸を内側から噛まれるような、苛立ちがこみ上げてくる。


『イエナッ。おい、どうした』


 不気味なまでの静けさがあった。木が焼ける音が、遠くになる。

 イエナの声がする一番近い壁を壊そうと思っていたが、もう待っていられなかった。


 春樹は、斧を担いで力を込めて壁に切りつける。


 堅い音がした。


 思い切り斬りかかったのに、跳ね返されたということがわかって春樹は愕然とした。


 気を取り直して今一度、斬りかかるが、やはり堅い音がして斧が弾かれた。


 炎はますます勢い増している。

 なのに、目の前の木の壁はまだ固いのだ。

 しかし、と。


 春樹は周囲に視線を走らせた。火を噴いている壁は今にも崩れそうであり、そこを斧でくずしてしまうと、建物全体が崩れてしまいそうだ。

 かといって、燃えていない部分は、まだ固い。


(どうしたらいい)


 動揺して考えがまとまらない。額に滲んだ汗が蒸発するのを感じた。


『代わりますっ』


 春樹の思考を寸断するように、ニコが春樹の手から斧をむしり取った。

 そして、高く斧を掲げると、からたち割りで壁を切りつけた。


 みしりと、鈍い音を壁が立てた。


 春樹が二度切りつけても、びくともしなかった壁に亀裂が走った。


 間髪入れずに、ニコが斧をもう一度たたきつつける。

 コーラの栓を抜くような音がしたかと思うと、壁が崩れる。ありがたいことに、建物は崩れない。

 斧は完全に壁を貫通していた。

 熱風が吹き出してくる。

 ニコが太い足で、壁を蹴ると木片が砕け散った。そこにひと一人が通れそうな穴が開いた。


 急がないといけない。

 春樹が水をかぶろうとしたときに、脇を駆け抜ける影があった。


 シータだった。


 シータの髪はすでに重く濡れているのが分かる。壁を壊すことを予測して、水をかぶっていたのだ。

 少し残っていた壁を足で蹴破ると、煙が渦巻いている建物に駆け込む。

 その背中には、何の躊躇いもない。


(酸素が供給されて、火が強くなるかも知れない)


 春樹も、もはや躊躇うことはしなかった。

 水をかぶると、肺を焼かれないように、息をとめてシータの後ろに続いた。



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