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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第三章
44/103

44



 火元は古ぼけた建物だった。

 たどり着いた時は、火勢はまだ一部に留まっていた。


 二階建ての建物の、一階の角、恐らくは厨房と思われるところから火が出ている。

 外壁までは、火は到達していないが、窓からは勢いよく燃える炎がちらついて見えた。

 遠巻きに、街の人達が見守っている。しかし、今のところ、中に踏み込む者は見えない。

 恐らく、中に取り残されているものはいないのだ。

 実際、まだ火はあまり大きくなく、十分に逃げ出すだけの猶予はありそうだった。

 近くまで寄っても、頬に火の熱さを感じない程度だ。

 パチパチと木がはぜる音が鳴っているが、それほど大きな音はしていない。周りの人もそれが分かっているからだろう、助けようとする具体的な行動に出ていない。


(とはいえ、一応、中を確認だけでもしたほうがいいよな)


 春樹は、入るための扉を捜したところで、ようやく自らの勘違いに気づいた。


 道路沿いの壁のどこにも入り口がなかったのだ。

 道沿いにあるから、表とは限らない。

 春樹が見ていたのは、建物の裏だった。


 春樹が自分の間違いに気づいたのと同時だった。


「助けてくれっ!!早く、早く、なんとか、どうにかして、どうしたらいい。熱い熱いあちぃ熱い」

「誰かいるだろ。火を消して、消してっ。消してくれ。誰でもいい」


 建物の中から、複数の助けを求める声が聞こえた。

 それは、助けを求めるというよりも、すでに理性を失った絶叫だった。


 この叫びを聞いても、助けに走る者は周りにいない。


(どうなってんだ)


 春樹は、シータと顔を見合わせて、正面に回り込んだ。

 途端に、髪の毛を焦がすような熱風が襲ってきた。


 前面の外壁は、一面が燃えていた。

 空を焦がすような炎が立ち上がっている。


 涙が沸騰しそうな、熱気だ。


『遅ぇぞ』


 振り返ると、イエナが手を組んで建物を睨み付けていた。ニコも心配そうに火を見上げていた。


『火消しのための水はどうするんだ』


 春樹は火勢に押されて、後じさりながらイエナに尋ねる。


『火消しのものたちが、モンターニャ湖に行っている』

『それじゃあ、間に合わないだろ。デニスの食堂にある井戸にも向かわせたのか』

『いま行く』


 ニコが春樹の問いに答えたかと思うと、すぐに食堂に向かって駆けだした。その姿はすぐに人混みに消えてしまう。

 だが、それに続くものは誰もいなかった。日本語だから、分からなかったのだろう。


 ますます火勢は強くなっていく。建物に向かって、緩やかだが空気が吸い込まれていくような気がした。


『お待たせ』


 すぐに、ニコがでかい桶に、水を一杯担いで戻ってきた。春樹にも見覚えがある、食器洗うための桶だ。驚くのは、この大きな桶をニコ一人で運んできたことだ。

 春樹だったら、持とうとしただけで腰をおかしくしそうだ。


 そして、その水桶が届くと、よし、とばかりにイエナが頭から水をかぶった。


「待てって、イエナは何するつもりだ」


 慌てて、春樹はイエナの肩をつかむ。


『何って、助けに行くに決まってらぁ』


 春樹は、目の前の炎に包まれている建物を見る。入り口となる扉はもちろんのこと、壁全体が燃えている。

 ごうごうと燃えさかる炎は、傍若無人に木の壁を焼き尽くし、柱までもその赤い舌で絡め取ろうとしていた。

 春樹は目を細めて、顔の前に手をかざした。


「こんなところに飛び込むなんて、死ににいくようなもんだぞ」

「それが?」


 イエナの突き放したような態度に、春樹は一瞬たじろいで、そして怒鳴った。


『それがって、何言ってんだ。死んじまったらおしまいだろうが』

『私は、この中に閉じ込められている人を助けてぇんだ』

『だから、イエナ自身が死んでしまうって言ってるんだ』

『自分が死ぬかどうかなんて、関係がねぇだろ』


 イエナは春樹を真っ直ぐに見返した。


「なんだ。お前は自分が生き残らねぇと、助けないのか」

「そうだよ。そうに決まってるだろ」


 春樹の言葉に、イエナは心底呆れたようだった。


『そうかい。そりゃあ、あれだな。生き残って感謝されるために、助けるだけだろ』


 イエナの言葉は衝撃となって、春樹の体の中に響いた。その言葉は、春樹の胸の奥にあった堅く冷たい何かに突き刺さって、ひびを入れた。


 もう議論の余地はない、とイエナは再度水を頭からかぶった。


『イエナ。この建物の中にいるのは知り合いなのか』

『直接には知らねぇよ。ただ、この中にいるのは奴隷達だってことは知っている。だろ、ニコ』


(奴隷……)


 春樹の脳裏に浮かんだのは、中天にかかった太陽と、喉に絡むような熱気の満ちた広場だった。そして、断頭台の重苦しい残像。


「取り残されているのは、僕の友達だ」


 話を振られたニコが、頷く。

 春樹は息苦しさを覚えた。息をするのも、難しいような熱風が顔に当たっている。頬がひりついている。

 鼓動が早くなるのを自覚する。

 胸が苦しくなってくる。

 それは単純に温度のせいだけではない。奴隷という言葉のせいだった。


『だから街の者も、あんま救助に積極的じゃねぇだろ。奴隷なんて、物扱いなんだからよ』


 イエナが三杯目の水をかぶった。

 服はすっかりびっしょ濡れになっており、これならば少しの間であれば、火を防げるだろう。


(……そうか。奴隷だから、助けようとしないのか……人をなんだと思ってるんだ)


 遠巻きに眺める街の人達を視界の隅で捉えて、春樹は心の中で罵倒する。


 春樹は、顔を上げた。

 そして早口でニコに指示を出した。


「この水桶をこの建物の裏に運んでくれ。そして、火がまだ回っていない壁に水を掛けてくれ」


 ニコは春樹の言葉に逡巡の様子を見せたが、春樹の顔を見ると水桶を担ぎあげて運び始める。

 春樹は、イエナに向き直って、肩をつかんだ。


『私が何とかする。まだ、突っ込むなよ』

『何とかするって、どうすんだ。もう時間はねぇだろ』


 イエナの顔は、熱でやられて上気している。そして、焦りのために額に汗を掻いていた。視線の先には、今にも崩れそうな建物がある。

 その中に、イエナは飛び込もうとしているのだ。

 春樹はイエナの肩を揺さぶった。


『とにかくっ。俺を待ってろよ』


 春樹は、今度はシータに言いつける。


「イエナが家に飛び込まないように見張っていてくれ」

「かしこまりました。ハルキ様」


 イエナとは対照的に、シータの表情には、いつもと変わったところはない。声も落ち着いている。これならば、イエナを押さえていてくれる……かも知れない。


(とにかく時間がない)


 春樹は浅く息を吐いてから、デニスの食堂に向かって足がちぎれんばかりの勢いで走り出した。



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