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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第二章
41/103

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 カルロ達が捕まった次の日の朝。


 領主館は、まだ夜の気配を残していた。


「この国に来て、2ヶ月か」


 干し草に敷いたシーツの上で寝るのも、すっかり慣れた。

 ただ蚊の多さには、いつも閉口する。近くに湖という大量の水があるのだから、ボウフラが湧くような、よどんだ水もどこかにあるのだろう。


 春樹は、目の前を飛ぶ蚊を手で追い払いながら、袖に手を通した。


「本気で、蚊帳がほしくなるような時が来るとは思わなかった」


 苦笑交じりに漏らす。

 日本にいた頃に、忘年会のときに年配の人達が、どうやって蚊を蚊帳に入れずに潜り込むか、という話で盛り上がっていたのを隣で聞いた記憶がある。それだって話していた人達も昔話として披露していたのだ。


 そういえば、その蚊帳の話をしていた税理士仲間から今回の調査のヒントとなる話を聞いたのだ。



 ☆



 名前を、比留間というその税理士とは、忘年会の時に偶然となりに座った。税務署を退官してから、税理士になったために70に手が届きそうな年齢に見えた。

 一般の方は、知らない人が多いが、税務署を退官した後であれば、署内での試験をパスすれば税理士になれるのだ。


 畳敷きの宴会場で、名刺を交換してから頭を下げられた。


「いやぁ、谷川先生。初めまして、比留間といいます」


 税理士仲間では、お互いに先生を付けて呼び合う慣例がある。その慣例のために、年配の比留間税理士からも、先生と呼ばれることになる。

 あのときも、居心地の悪い思いをしながら、聞いていた。


「それで、先生。調査で、食堂にいったときに、調査官が注意する点はご存じですか」

「いえいえ。まだ税理士になったばかりで、調査の立ち会いの経験もあまりありませんので」

「そうですか」


 そこで比留間は少し得意げに、皺のある頬を上げた。


「棚卸や、未払金の期のまたぎなんかも、注意すべきですけど、やっぱり一番気になるのは、売上の過少計上ですわ」

「それはそうですけど、売上はPOSシステムで、厳格に管理されているじゃないですか。あれをいじるのは、かなり知識が必要じゃないですか」

「いやいや、先生。そんな最近の話は、横に置いといて、昔の話ですよ。昔は、レジもないし、カウンターで算盤で計算したりしてたんですから」

「はぁ。なるほど」

「そうなると、売上を裏付けるものがなにもないでしょ。となると、ちょっと儲かりはじめると、売上を抜いちゃう店主が多いんですわ」

「そうなると、どうしようもないような気がしますね」

「まあ、そうですわなぁ。なかなか難しいところは、あるんですわ。ただ、準備さえすればある程度はわかるもんです」

「どうするんですか」

「調査通知をする前に、事前に何度か店に行って繁盛具合なんかを見てくるんです。そしてね、大体で良いから、一人当たりの客単価を調べておくんですわ」

「客単価が分かっても、一日に何人来ているかわからないんじゃないですか」

「それがね。分かるんですわ」

「どうやって」

「割り箸です」


 この話を聞いたときは、春樹は心の中で喝采を上げた。


「割り箸の請求書を一年間調べ上げれば、どれくらいの客が来るかわかるんですな。あとは、客単価を掛ければ、売上が抜けているかはわかりますわ」

「なるほど。でも、それだと洋食だとわからないじゃないですか」

「いやいや、これも手がかりはあるもんです」

「何か数えるものが、あったんですか」

「おしぼりです」



 ☆



 目を閉じて、思い出の情景を振り払った。

 そして、春樹は、窓を開けた。


 日本でいえば、午前5時30分といったところだろう。夏の一日の中で、最も空気が爽やかで澄んでいる時間帯。


 髪を撫でる風が、少し秋の気配を感じさせる。

 指で、左の耳を触る。はっきりと形が変わった耳の縁をなぞった。


「耳たぶがないのも慣れてきたな」


 もしこのまま日本に戻ったら、どうやって秋子に言い訳をすべきか、そう考えて春樹は自分の心の動きにはっとした。


 それは、日本に戻ることがもはやないような感覚で、秋子のことを思い出していたからだ。

 秋子に会うということは、もう二度とない、そう春樹は心情的に諦め始めていた。


 ずっとこの国で過ごす。

 そのことが、実感となって胸に迫った。


 そのことを、厭わしく思っても、或いは好ましく思っても、いずれにしろ春樹にとっての現実なのだ。ならば、受け入れるしかないのだろう。


「ちょっと、起きるのが早かったかな」


 春樹は、今日からデニスの食堂に行かなくて良くなった。

 売上の不正については、犯人が昨夜捕らえられた。したがって、今日からは春樹の本来の勤めであるゲオルグの手伝いをすることになる。


 春樹は一度、大きく伸びをする。

 背筋が伸びる。

 どんな世界でも、人に迷惑をかけずに、自分の目の前にあることにまっすぐに向き合って、生きていけばいい。


 胸にあるのは、一つの仕事をやり終えた満足感と、これからの生活に対するかすかな期待と不安感だ。


(結構、重宝がられていることだし、ゲオルグの手伝いを一生懸命やればなんとかやっていけるだろう)


 そんな風に、春樹は考えていた。ゲオルグが領主をやめることのほうが、これからの春樹の人生の終末よりも早いだろうが、そうなればそうなったときに考えればいい。先のことを考えるには、この国のこともまだ分からないことが多く、自分の立ち位置も理解できないことが多かった。


(それから、シータの兄さんの捜索もしないといけない)


 それが、目下の一番の目標となる。

 ゲオルグの手伝いをしながら、情報のアンテナを高くして、人捜しをする。情報収集手段が極めて乏しいこの国で、どうやって捜せばいいのか、まず手段から模索しないいけない。

 ゲオルグの仕事もまだまだ理解しきれていないこともある。共用語もまだまだ会話ができるほどにはなっていない。人捜しとなると、共用語だけではなく、生活習慣といった文化も深く理解していないといけないだろう。

 シータと約束したことを実行するためには、春樹の能力は全く不足している。


「ま、一歩一歩だよな」


 春樹が声に出して、呟いたところだった。


 ノックの音がした。


『ハルキ、起きてるか』


 ゲオルグだ。

 春樹は、不審に感じた。今まで、ゲオルグが朝の早くにこの部屋に来たことなどない。

 しかも、まだ春樹が寝ているのが自然な時間帯だ。ゲオルグはその辺りを、気にするタイプだ。


 春樹は、振り返って身を正した。


『はい、どうぞ』

『入るぞ』


 ゲオルグは部屋に入ってきて、ぐるりと首を巡らした。窓際の春樹に気づき手を上げた。

 前夜の影響か、その顔には若干陰りがあるように思えた。額の皺も深く見える。


『早くに、すまない』


 声にも張りがなく、動きにも精彩がない。


『いえ、もう起きていました』

『そうか……』


 ゲオルグはそこで、少し言いよどんだ。だが逡巡は一瞬。


『カルロの処刑(スプリシウム)が決まった』


 苦いものをはき出すような、口ぶり。少し早口だった共用語を、頭の中で組み立てて、春樹は一呼吸を置いてから、聞き間違いだと判断した。

 処刑(スプリシウム)という言葉を書面でしか見たことがなかった、というのもある。


『カルロが、処刑というように聞こえましたが』


 ゲオルグは、春樹の態度を見てすぐに日本語で言い換えた。


「そうだ。カルロの処刑が、今日執行される」


 それは、春樹自身への死刑宣告のように、春樹の耳には響いた。




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