4
遠くに雪をかぶった山々が連なっている。
空には綿菓子のような雲が、右から左へとゆっくりとながれていた。
空気は、澄んでいて、胸の奥にあるにごりを取り除いてくれるようだ。
一面の草原。
黄色い花が咲き乱れるなかに、白い花がぽつりぽつりと咲いている。
黄色い花は、タンポポのように見えた。よくよく見ると、白い花に見えたのは、タンポポの綿帽子だった。
タンポポの絨毯だった。
(綺麗だ)
春樹は、呆然としていた。
春樹の髪を、もてあそびながら、風が吹き抜けていった。
「どこだ、ここ」
タンポポの花畑に、春樹はいた。
(寝ぼけてんのか)
さっきまで、間違いなく握っていたガラス戸のノブはない。見上げても見慣れたドアベルはなく、それどころか事務所の天井すらない。
抜けるような空と、どこまでも広がっていく山並みと、草原。
振り返っても、事務所前の駐車場ではなかった。
その代わりに、真っ直ぐに天を突くような樹木が五本すっくと立っている。
「なんの冗談だ……これ」
春樹は足から、力が抜けていくのを感じた。
そして、ペタリとその場にへたり込んでしまった。
お尻の下でタンポポがつぶれてしまい、少し可哀想な気がしたが、立ち上がることが出来なかった。
タンポポを触ってみるが、質感があまりにもリアルだ。
葉っぱには、細かなうぶ毛がびっしりと生えていて、湿り気があることを指先に伝えてくる。
(これは夢か)
タンポポの下にある土は、黒い。
あまり詳しいわけではないが、子供の頃に親しんだ土の色は、もう少し茶色い風合いをしていたような気がした。
握ってみると、水気を多めに含んだ土壌のようだった。
雨が降ってから、あまり時間が経っていないのかも知れない。
座り込んだスラックスに、水が染みこんできているのが分かった。
(あまりにも、リアル過ぎる)
手のひらにこびり付いた土を、両手をすりあわせるようにしてはたき落とす。
春樹は震える足を叩いて、立ち上がった。腰を捻って、お尻を見ると、黒くなったお尻が見えた。そういえば、このスーツはおろしてから、まだ二週間ほどだった、と妙なことを思いだした。
(スーツがどうのって、そんなこと言っている場合じゃないよな。そんなことよりも今の状況をどうにかしないと)
そもそも、今の状況とは、どういう状況なのか。
事務所に入ろうとしたら、事務所に入らずに草原にいました、という状況か。
馬鹿馬鹿しいとは思うが、それ以外に表現のしようがない。
それから、と春樹は今一度、すこし落ち着くように、周囲を見回した。
すると、ここは草原というよりも、高原といったほうがより正しい場所だということがわかった。
タンポポの絨毯は、見渡す限り広がってはいるものの、それは角度がついて視界から見えなくなっているからで、ここは山の中腹あたりにある広場のように思われた。
そして、ここが大切なことなのだが。
あまりにも驚きが大きすぎて、理解できていなかったのだが、タンポポの黄色い花畑の向こう側にひっそりと一つの建物があった。
恐らくは、木造なのだろう。黒い外見に、切妻型の屋根のうえに、さらにかぶせるようにして帽子のようにとんがった屋根がある。
その屋根の先端には、オブジェがあった。
風見鶏のように、と言えばいいのだろう。
屋根の先で、周りを見下ろしている。
見たことの無い形のオブジェだった。
そのオブジェが、春樹を不安にさせた。
もし、そこにあるのが、風見鶏や十字架のようにどこかで見たことのあるものであったのなら、今の春樹はむしろホッとしただろう。突然、こんなところにやってきたけど、ここは少なくとも春樹のいる世界。そう春樹が認識していた、世界のどこかなのだ、と。
地球とよばれ、日本という国があって、いくつかの大陸があって海があった、春樹の認識していた世界。
そのどこかに、何らかの現象によって、突然現れたのだ、と。
だが、見覚えの無いオブジェは、春樹の胸の中にざわめいた、ある予感を想起させた。
もしかして……ここは異世界なのではないか。
春樹が知っている、自転車、車、電車、飛行機、そして宇宙船。
そのどれを駆使しても、ここには来られないのではないか。そして、どれを駆使しても、来られないということは、どれを駆使しても、戻れないのではないか。
突拍子もない、考えがわき出てきて、春樹は頭が真っ白になった。
何も考えられない、目にうつっているものはあるのに、それが何かを理解できない。
視覚、聴覚、触覚、すべてが断絶する。
思考も、何もわき上がってこない。
世界の中にたった一人でいるような、そんな感覚だった。
世界から、見放されたような、孤独。
瞬間だった。
不意に、耳元で、
「あはははは」
と、小さな笑い声が聞こえた、ような気がした。
強引に、意識が引き戻される。
春樹は、驚いて当たりを見回した。
しかし、やはり春樹は一人のままだった。
(とにかく、ここにぼんやりと突っ立っていても、どうにもならない)
春樹は、両手で挟むようにして、きつく頬を叩いた。