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「そろそろかな」
春樹は、パソコン画面の左下にある時間を見て、呟いた。
秋子が夕食の準備に事務所から出てから、三十分程の時間が過ぎていた。春樹達が住むのは、事務所が入っているマンションの二階だ。歩いて、一分も掛からない。
立ち上がり掛けて、そうだと思い直して、春樹は折り紙をポケットに入れる。一辺、7.5センチの小さめの折り紙だ。折り紙は、自宅ではなく、事務所にストックしているのだ。
ズボンのポケットに入った折り紙を、上から押さえたところで電話が鳴った。
(母さんからだな)
そう思い、受話器を取りかけて、手を止めた。
電話の右肩にあるライトが、赤く光っていた。
これは、外線着信の印だ。
あぶないあぶない、と春樹は自身を戒める。
だらけた声で、電話を取ってしまうところだった。
「はい、谷川税理士事務所でございます」
よそ行きの声を春樹は出した。
「あ……」
と、少し失望した声が受話器から聞こえる。この反応には慣れている。秋子が電話に出なかったからだ。それだけ、春樹と秋子とでは、信用力が違う。
事務所を開いて、三十年と、税理士になった二年ではそれだけ差がある。当然だ。
「春樹先生かな」
その声で、相手が誰か春樹には分かった。
「藤田鉄鋼の藤田社長、お世話になっております」
「いやいや、こちらこそ。それで春樹先生、所長さんは見えるかな」
「はい、おりますが、今、料理をしていますので、すぐに電話口にでれるかは、わかりかねます」
藤田が電話先で少し思案しているのがわかる。
春樹の事務所や、二階の住まいとの関係は、藤田もよく理解している。
「そっか、分かった。それじゃあ、っていうと、春樹先生には失礼なものいいだけど、ちょっと困ったことがあってさ」
その言葉に、春樹も身構える。
ちょっと困ったこと、に応えるのが税理士の存在意義なのだ。
「実はさっき、税務署から連絡がきてさ」
ぐっ、と体が乗り出すのが自分でもわかった。
「税務調査の日時を検討したいって」
「そうですか」
「税理士の先生がついてますので、そちらと相談してからって、答えたんだけどよかったよね」
「もちろん、その回答で結構です」
安心させるように、なるべく断定口調で、ゆっくりと春樹は答えた。
「今から、所長に確認いたしますので、藤田社長の空いている日時を教えていただけますか」
「いや、いま火を使っているだろ」
「うちの夕飯なんかより、税務調査のほうが優先順位は上ですので」
藤田が苦笑しているような雰囲気が、電話口から伝わってくる。
わかった、という言葉の後に、藤田が空いている日時を伝えてきた。それをメモして、受話器を置くと、春樹はすぐに二階の202へと向かった。
部屋に入って、事情を伝えると、秋子が目をつり上げた。
「どうして、税務調査の連絡が藤田鉄鋼に先にいくの、おかしいじゃない」
エプロンで、両手を拭きながら、秋子は声を荒げる。
「春樹、藤田鉄鋼の前年度の申告書に、税務代理権限証書は添付してたの?」
秋子の問いに、春樹は頷いた。
税務代理権限証書は、納税者の税務行為を代理して行うことを証明した書類だ。これを法人税の申告の際に添付することによって、提出した申告書に関する疑問点等があれば、税務署は税務代理人にまずは連絡することになる。
藤田鉄鋼の場合は、谷川秋子が税務代理人となる旨を記載した証書を添付して、申告をしているのだから、まずは谷川税理士事務所に連絡をいれるのが、筋なのだ。
「まったく、税務署の職員がぼーっとしてたら、たまったもんじゃない」
ぐちぐちと言いながら、秋子が電話を掛ける。不平たらたらだったのに、電話がつながった途端に1オクターブ声音が変わるのが、横から聞いていると滑稽だ。
藤田と日程調整を済ませて、秋子がスマホを耳から離した。
「来週の水曜から、三日間、藤田鉄鋼の調査立ち会いだから」
「えーと、水曜から」
春樹が手帳を捲った。
「ありゃ、木曜に協同組合主催の統一研修会がはいってるけど」
「え、そんなのはいってないよ」
そう漏らした秋子がスマホのカレンダーソフトを立ち上げた。
春樹は紙の手帳で、秋子がアプリ。こういう新しいものを取り入れようとする気概は、見習う必要があるなぁ、と春樹は思う。
「しまった」
秋子が舌打ちした。
「来月のところに予定を入れてた」
(まぁ、新しいことに失敗はつきものだけど)
「別に、研修は行かなくてもいいじゃないの」
「それがねぇ。この日の研修は、講師の方と、昼食を一緒にとることになってる」
「接待だね」
「そそ」
秋子はすぐに、電話をかけ直して、日程を再来週の月曜日から水曜日の三日間に予定を変えた。
「明日、税務署に電話して日程調整をしないと」
満足げに秋子はそう言って、キッチンに戻った。
「すぐに夕飯はできるから、事務所の閉め作業をやってきて」
「あーい」
春樹は、秋子に手を軽く振ると、スリッパを履いて事務所へと向かった。外はもうすっかり真っ暗になっている。
肌寒い、と感じる季節はではなく、軽快に春樹は階段を降りる。
事務所の前まで来て、ふと違和感を覚えた。
事務所の中で何かが光っているように見えたのだ。
事務所の電灯ではない、もっと下、しかし床ではない。机の上ほどと思われる場所が、黄色く輝いている。
ガラス戸越しに、その光を認めて、春樹は内心首を傾げた。
スマホは二階に置いてきているし、懐中電灯が机の上にあるはずもない。
一呼吸置いてから、ゆっくりとガラス戸を押す。
すると、いつもと同じようにドアベルが、カロランと鳴った。
しかしその音は、事務所の中で響かず、大きな空間の中で消えてしまうように、拡散してしまった。
「えっ」
春樹は目を見張った。