25
ゲオルグは、シータと春樹の笑顔を見て、少しだけ頬を綻ばせた。
「それでそのシータのことなのだが……」
そこでゲオルグは、口を閉めた。
そして、一人で頷いた。
「ふむ、そのことは後で話そう……では、次の話に移ることとする」
ゲオルグは声音を変えた。
「ハルキが行商人のディゲニスに暴行を働いたことについてだ。これについては、ソル公爵領の刑法に基づいて裁くこととする、異議はあるか」
これは、と春樹は息を呑んだ。
(ここで裁判が行われるのか。ゲオルグは領主だ。犯罪者を裁く権能をもっているということか)
「異議というのは認められるのですか」
「認められる。ここは、ソル公爵領だが、ウェントゥス公爵家の管理を受けている。ソル公爵領、ウェントゥス公爵領、いずれの刑法で裁かれるか、被告人が選択することができるのだ」
当然、両者の刑法の違いを春樹が知っているわけがない。
「それではソル公爵領の刑法のままでお願いします」
「良いだろう。では、ソル公爵領の刑法に則り、ハルキを審議する」
心の準備も何もあったものではない。
取り調べはなかったし、そもそも現場検証をやったのか、と言いたくなったが、郷に入っては郷に従え、何も言わずに、春樹は唾を飲み込んだ。
春樹は空気の重さを感じて、手を握りしめる。その手を外からシータが握ってきているのを感じた。
自分がやったことの責任は取らなければならない。それは人が人として、社会を作り、共同生活をする以上避けて通れないことだ。
春樹は背筋を伸ばして、ゲオルグの言葉を待った。
「--、--」
ゲオルグがやや大きめの声を出すと、左側の扉が開き、二人の体格の良い男が現れた。
いずれも見たことの無い顔だ。その腰に、重そうな剣がぶら下がっているのを見て、春樹は覚悟を決めた。
いわゆる、刑務官だろう。
二人の男が、春樹の両側に立つ。
続いて、食堂店の店主であるデニスがやってきて、神妙な顔つきのイエナ、見覚えのある町の人達が数人入ってきた。隣にあるサロンに待機していたのだろう。一方、執務室はそれほど広い部屋では無いため、息苦しさの度合いが増してくる。
最後に入ってきたのは、行商人のディゲニスだ。顔全体がはれ上がっており、その目には憎々しげな色がある。
公開裁判だ。
「さて、ハルキ。今朝方、ビエントの町の往来にて、ディゲニスを殴った、これは間違いないか」
ゲオルグが表情のない顔で問いかけてきた。
「はい」
「よろしい。では、その時、何度殴ったかわかるか」
「……四回でしょうか」
一度、殴ったあと、続けて三度だったような気がする。だがはっきりとは覚えてない。
「五回だ」
ディゲニスが割り込んできた。
この男、日本語が分かるようだ。
ゲオルグはその発言を制止せずに、共用語で町民たちに補足したのちに、彼らの言葉を待った。しかし発言はなかった。
「ハルキ、回数について何か言うことは」
「ありません」
「では、五回とする」
ゲオルグが断定した。この裁判の形式がわかった。つまりは、ゲオルグが聞いて、ゲオルグが判断して、ゲオルグが判決を下すのだ。
「ハルキ、自らの行為について申し開きはあるか」
「あります」
「申せ」
「先に短刀を抜いて、こちらに害意を示したのはディゲニスです。私は耳を切られていますし、これ以上、短刀と対峙するのは危険だと判断して、殴りつけたのです」
「その経緯は見ている。したがって、この後、ディゲニスも裁判に掛ける」
ディゲニスが小さく悲鳴を上げた。どうやら、聞かされていなかったようだ。
「それとこれとは、別件だ」
ゲオルグの話の筋道はしっかりと通っている。とはいえ、この裁判自体が、日本の司法を少しは知っている春樹からすれば、一種の私刑のように感じられる。
ディゲニスが声を上げる。
「その男が、俺と奴隷の間に割り込んできた。それに、先に殴りつけてのは、その男だ。だから俺は短刀を抜いたのだ。悪いのはその男ではないか」
「いや、それはお前がこの子を殴っていたから」
「奴隷を殴って何が悪い、俺のものだ」
「人を殴っておいて、その言いぐさはなんだ」
春樹は、胸が痛くなるような怒りを覚えた。ディゲニスに向かって、足が一歩でる。
だがその春樹の怒りを静めるように、落ち着いた声でゲオルグが仲裁に入った。
「まて」
「……しかし」
「ハルキ、まずはその激した心を押さえろ」
春樹は出した足を元に戻して、ゲオルグに向き直る。
「そして、聞け。ハルキ。お前がどこの国からきたのかは、私は知らぬ。だがこの国においては、奴隷をどのように扱うかは、彼らの主人に委ねられているのだ。従って、奴隷の子が殴られていたからといって、それに異議を唱えることは、誰にもできぬ」
春樹は耳を疑った。
「奴隷の子は、主人から何をされても黙って耐えろ、ということですか」
「そうだ」
「それが、たとえどのようなことでも」
「そうだ」
「なぜですか」
「奴隷だからだ」
ゲオルグの言葉は、春樹にその意味を正しく伝えてきた。この国では、奴隷という立場にあるものは、人間ではない、そういうことなのだ。
同じように生を受け、同じように希望を持っているであろう人間を人間として扱わないというのだ。
そんなことが許されて良いのか。
春樹はシータを見る。
はかないが確かにそこに息づいている命があった。
「主人によって奴隷が目の前で殺されようと、他のものは異議を言えないわけですね」
「そういうことだ。もちろん、公共の場でそのようなことをすれば、後始末に困るだろうがな」
後始末に困る、という一言で済まされる問題ではない。
春樹は、沸き立つような怒りで、叫んでいた。
「それは間違っている」
部屋に響きわたる怒声。デニスが目を白黒させている。その隣で、イエナが口を大きく開いていた。
しかし正面のゲオルグは、それを平然と聞き流した。
「この場は、奴隷制度の是非について議論をする場ではない。ディゲニスの言を入れて、ハルキがまず害意を示したこととする」
春樹は、口を開きかけて、堅く唇を噛みしめた。ここで言い合っても、水掛け論だ。
ゲオルグに罵声を浴びせても、奴隷制度が変わるわけではない。
「したがって、ハルキはディゲニスに対して、何ら正当な理由なく暴力行為に及んだことになる。ソル公爵領の刑法によれば、人の身体を傷害した者は、身体刑又は罰金のいずれか、又はその併科である」
身体刑ってなんだ。
不気味な響きに、春樹の背中をざわりとした恐怖が這い回った。
「ハルキは現状、財産は全く有してない。よって、身体刑を申し渡す」
続いて、共用語でゲオルグが何かを告げた。その瞬間、両脇にいた刑務官が、春樹を床に叩きつけた。
そして、冷たい木の床に、うつぶせにされて、両腕を羽交い締めにされた。
(どうするつもりだ)
刑務官が何をしようとしているのかわからないのが、逆に酷い恐怖だ。
痛みはすぐに襲ってきた。
また、耳だ。それも同じ左耳だ。
空気をかき消すような絶叫が、春樹の口から放たれた。
痛い、痛い痛い。
痛みというのは、人の思考を麻痺させる。頭の中を、痛いという情報だけが、駆け巡り左腕が痙攣をした。
知らず、奥歯を食いしばっていた。
足が無作為にばたばたと上下に揺れた。刑務官は手慣れているのか、まったくその足には触れなかった。
視界のすべてが赤く染まった。
たぶん、耳を切られた。
身体刑とは、そういう意味だったのだ。受刑者の身体に加えられる痛みによる刑罰。
汗が全身から噴き出した。
何度も、体を揺らしたが、押さえつける力は強く。びくともしない。
次第に、耳の痛みは麻痺してしまう。
しばらく、そのまま押さえられていたが、足の揺れが無くなったのを見計らって、ゲオルグの共用語の命令が下された。
春樹は刑務官に無理矢理立たされて、部屋の隅に連れて行かれた。シータが涙目で春樹の足下にすがりつく。
続いて、ディゲニスが中央に立たされた。
春樹は頭を振って、なんとか思考を取り戻す。
そして、やり取りが開始された。しかし、やり取りが全て共用語のために、春樹にはどのようなやり取りがされているのか、理解できない。
痛みで、頭の奥で、警報が鳴り続けている。
しかし、ディゲニスにどのような判決が下されるのか、意味が分からなくても見届けたかった。
「罰金刑だとさ」
町民の間を縫って、イエナが隣にきた。その気遣いに、春樹は目で謝意を示した。
イエナがぷいと視線を反らせた。
その瞬間、声高にゲオルグの声が響いた。
「罰金の金額は、一万キルク……」
イエナの翻訳とかぶるように、ディゲニスが声高に反論し始めた。たぶん、高いということだ。
しかし、ゲオルグが首を振っている。
それはそうだ。被告が文句があるからといって、金額を下げるわけがない。それにしても、ディゲニスの様子をみると、どうにも相場よりもかなり高い金額のようだ。それはゲオルグらしくない判断だ。
無い袖は振れない。
払えない金額を提示しても、無意味だ。ゲオルグがそんな金額を提示するだろうか。
何度か交渉がかわされる。その最後にディゲニスが、忌々しそうに春樹に視線を投げた。
そのまま刑務官に付き添われて、部屋から出て行った。
結局、どうなったのか。
隣では、イエナが呆れたような表情をしていた。そのイエナの言葉を待った。
「……おいおい、ハルキ。お前さん、かなりゲオルグに見込まれてるようだぜ」
見込みって、さっきのやり取りでそんな会話があったのか。
「これって、ありなんか」
イエナが天井を仰ぎ見る。
「ディゲニスが、賠償金をすぐには払えないと言ったら。ゲオルグは支払いの猶予は認めなかった」
だとしたら、どうするのだ。
イエナは肩をすくめて見せた。
「払えないのら、こいつを」
イエナが顎をしゃくる。その先にはシータ。
「この町に、置いていけ、だとさ」