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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第二章
24/103

24



 今、何時なのか。

 部屋を出て、右手の窓を見ると、まだ陽は高かった。日本の感覚でいうならば、二時過ぎ、三時にはなっていない、といったところだろうか。

 二階にあるゲオルグの私室に向かい、ノックをしたが返答はなかった。となると、一階の執務室だろう。

 春樹が階段に足を向けると、後ろからシータがトコトコとついてきた。足取りはどこか危なっかしい。

 シータを気遣いながら、螺旋階段を降りたところで声を掛けられた。


「ハルキ。大丈夫か」


 気遣わしげな言葉を発したのは、イエナだった。


「別に……」


 何ともない、と答えかけて、ようやく春樹は、自分が耳を切りつけられたことを思い出した。咄嗟に、左の耳に手を当てる。

 すると、耳の形が全く変わっていることに気がついた。

 続いて痛みがはしって、思わず顔をしかめた。


 言葉にならない悲鳴が口から漏れた。

 膝元では、シータが春樹を見上げて、眉をひそめた。春樹はシータに笑いかけて、心配ないと首を振って見せた。


 耳の下半分が無くなっていた。


 耳の穴の周辺を手でゆっくりと確認すると、耳穴を守るように立っている軟骨より後ろ側は完全に切れて、無くなっていた。いびつな形にえぐられた耳は、かなりグロテスクになっているに違いない。

 とはいえ、運がよかった、と思うべきだ。もし短刀が少し逸れていたら、左目をえぐられていただろう。


「……その耳」


 イエナが声を震わせた。


「ちょっと、おしゃれだろ」

「強がんな」


 イエナが吐き捨てた。栗色の髪が、乱れる。


「そのガキが、原因なんだろ」


 イエナの眼光が鋭くなる。春樹は、シータの頭を撫でた。


「原因は、私さ。慣れもしない大立ち回りをして、下手を打っただけさ」

「そうかいそうかい。ハルキがそう言うんなら、そうしとくよ」


 イエナは背中を向けた。


「ゲオルグなら、突き当たりの部屋にいるよ。他のやつらもな」


 言葉を置いて、イエナは外に出て行った。


(他のやつら……)


 意味の分からない言葉を残して、イエナは左の扉に姿を消した。

 たぶん心配してくれたのだろうイエナに、春樹は心の中で頭を下げた。


 春樹は、イエナが消えた扉を通り過ぎて、ゲオルグの執務室の前に立った。ひとつ大きく息を吸ってから、ノックをした。


「入れ」

「失礼します」


 扉を開けて、深く一礼。


「本日は、私の勝手な行動でご迷惑をおかけして申し訳ございません」


 頭を下げたまま、しばらくの沈黙。見えるのは古ぼけた床だけ。


「私自身は、特に迷惑は受けておらんさ」


 春樹が頭を上げると、ゲオルグは普段と変わらない様子で正面の大きな机の上に書面を開いていた。いるのはゲオルグだけだ。そのゲオルグの口元には、少しからかうような様子が浮かんでいた。


「ハルキ、お前は存外命知らずだな」

「はっ?」


 ゲオルグが笑声を上げた。


「剣術の授業をみた限り、剣を握ったのは初めてのようだったからな。命のやり取りになれていないのではないか」

「その通りです」

「それでよく、短刀に素手で立ち向かおうなどと思ったものだ」

「いや、必死でした」

「その子ためか」


 ゲオルグが、春樹の横にちょこんと立っているシータを見る。


「はい」


 春樹は頷いた。だが、正確に言えば少し違う。春樹が守ろうとしたのは、理不尽な暴力にさらされた無力な子供、であって、別段横にいるシータでなくとも守ろうとしただろう。


「耳はどうだ、聞こえるか」

「大丈夫です」


 とくに音が聞こえにくいといった症状はいまのところ感じられない。あとで消毒のために、煮沸した水で洗っておく必要はあるだろうが。


「なぜ、耳を切られたかわかるか」

「それは……しっかりと腕を押さえられなかったこと。短刀をすばやく奪えなかったこと」

「そういったことは、結果であって原因ではない。昨日の剣術の授業で教えたことは、剣に徒手で立ち向かうときの立ち回りであって、短刀ではない。……短刀と剣の違いはわかるか」

「長さ……でしょうか」

「そうだ。それが短刀と剣の違いだ。自分でそれぞれの武器を持って戦うときのことを、想像してみろ。どちらが使いやすい」

「それはもちろん短刀です」

「それは短いからだろ」

「そうです」

「つまり、取り回しが全く違うのだ」


 そこまで言われて、ようやく春樹は理解できた。もしあのとき、行商人が持っていたのが、通常の長さの剣であれば耳を切られることはなかったのだ。

 あれだけ体を密着させた状態で、剣を春樹に突きつけることはできない。


「戦いにおいては、相手が使っている武器の特性を知ることが、自分が持っている武器の特性を知ることと同じぐらい大切なのだ」

「はい」


 まさに身をもって知った。


「ところで、だ」

「はい」

「その子のことだが」

「シータですか」


 ゲオルグが驚いた顔をした。


「その子の名前は、シータというのか」

「はい」

「誰から聞いた」

「誰からって……シータからです」


 日本語がわからないらしいシータが、春樹とゲオルグの顔を見比べて困ったように小さな笑みを浮かべた。

 ゲオルグは苦笑いを見せた。


「そうか。実は、ハルキが寝ている間に、その子にいろいろと共用語で尋ねたのだが、口をつぐんだまま何もしゃべらなかったのだ。行商人に尋ねても、その子は口がきけないと言っていた」


 シータは不思議そうな顔で春樹を見上げている。


(耳の傷ぐらい、安いものだった……かもな)


 しばし春樹はシータを見つめた。


 やがてシータは、本当に嬉しそうに目を細めて、最高の笑顔を見せた。

 それに釣られて、春樹は笑った。

 この国に来てから、初めて心から笑ったような気がした。


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