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春樹が目を覚ましたのは、自分の部屋だった。
天井の黒い染みも、テーブルの上の帳簿やネズミの折り紙も見覚えのあるものだ。背中に感じるシーツ越しの干し草の感触もどこかなじんでいる。
ほっ、と息を吐いた。
そして自分がやったことを思い出して、ひどく気が重くなった。
自分自身の心の中に、あんなにも巨大で制御できない熱い暴風のような部分があることを知らなかった。知りたくもなかった。
冷静になれば、相手を押さえつけた時点で、短刀を奪い無力化すればそれで良かったはずだ。なのに、激情に駆られて殴りつけるなんて、自分の経験なのに夢で見た風景を思い出すように、現実味がなかった。
あれは本当に自分がしでかしたことなのか。
恐怖が胸の奥に沈み込むように堅い塊となって、春樹をさいなんだ。
自責の念ではなく、未知のものに対する潜在的な恐れだった。
もし、あの場面にもう一度出会ったら、同じように逆上して、男を殴り続けてしまうような畏怖。
指先や足先が冷え冷えとして、今にも凍り付いていくような気がした。
ゲオルグが止めてくれなければ、もしかしたら春樹は一人の人間を殴り殺していたかも知れない。
そのあり得たかも知れない未来に、春樹は冷水を浴びせられたようにぞっとした。
(一週間前に、短刀を持った人間が目の前に立っていたらどうしただろうか)
例えば、それが母を人質にとっている犯罪者だったとしてだ。
間違いなく背中を見せて逃げていたはずだ。よくて警察に連絡をする、だろう。間違っても、立ち向かってしかも殴りつけるなんてことは選択しなかった。とすると、自分はどうしてさっきのような対応をとってしまったのだろうか。
この国の環境が春樹を変えてしまったのか。
分からない。ただ、殴ったことはやり過ぎたとは思うが、後悔はしていなかった。幼い子供を、立場や腕力を傘にきて殴りつけるような男は何らかの制裁をうけるのは当然なような気がした。
ただこういった考え方そのものが、自分自身の根本的な変化のような気がして、春樹はうすら寒い恐怖を覚えた。
(落ち着け……。とにかく、あの子供がどうなったか、確認しよう)
そしてあの男にも、詫びをいれなければならないだろう。
そこで春樹は心の中で、頭を振った。
(何を言っているんだ、僕は)
そもそもこれは傷害罪だ。日本でなら、警察に逮捕されて留置場に放り込まれるレベルの犯罪だ。ゲオルグが、このような犯罪を行う人間は手元に置いておけない、と判断すれば、春樹はこの身よりのない世界に一人で放り出されることになるのだ。
まずは、ゲオルグに陳謝をしてから、行商人の男に謝罪をする、春樹はそう決めた。
そして、ベッドから足を降ろそうとしたところで、春樹はようやく気がついた。
春樹の足下に抱きつくように寝ている子供に。
見間違えるはずもない、春樹が助けた子供だった。
(助けた、といえるのだろうか)
もしかしたら、これからこの子供はあの男から更に酷い仕打ちを受けるのかもしれない。春樹がすべきことは、暴力に訴えることではなく、もっと理性と知性を働かせて、あの男の支配から、この子供を救い出すことだったはずだ。
それは今からでも、可能だ。
春樹はぎゅっと手を握りしめた。この子供が奴隷と決まったわけではないが、あの男の態度を見ていれば、その可能性は非常に高いように思われた。となると、その解決策はお金だろう。
ゲオルグは春樹にお金の前借りを許してくれるだろうか。
今のところ、ゲオルグは春樹の仕事に対して対価の支払いを申し出ていないが、もらってもおかしくない……はず。
ただ、この辺りは、いくら考えても仕方がないところだ。
とにかく、子供を男の支配下から助けだすことを最優先に行動する、ということを春樹が決めた、そのときだ。
子供が小さな瞼を持ち上げて、目を覚ました。春樹と目が合うと、困ったように視線をそらした。こそげ落ちた頬が、痛々しい。明らかに、栄養不足だ。顔色は酷く、髪の毛にも艶がまったくない、それなのに目だけが飛び出していた。
春樹はそのざらざらとした頬を撫でた。
恥ずかしそうに、子供は目を伏せた。
くすんだ髪の毛は、白髪のように見えたが、光の加減ではきらきらと光ってるように見えた。銀髪、というのが正しいのかも知れない。
それに、と春樹は、一つの認識を加える。
(この子は、女の子だ)
唇にかすかに残った丸みが、その唇の持ち主が少女であることを春樹に主張していた。少女の身で、行商に付き従い、しかも主人があの調子なのだ。どれほど過酷な旅を、この少女はしてきたのだろう。
春樹は、自分が持つありったけの優しさを込めて、少女の頭を撫でる。
「君の名前は?」
少女は消えてしまいそうな声で答えた。
「Theta」
と。




