22
デニスから書類を受け取って、ゲオルグと春樹は道に出た。
まだ朝の気配が色濃く残る道は、怜悧な空気が残っていた。そして強い風が吹いていた。
本当に風が強い町だった。
春樹が口に手を当てて、砂埃が口に入らないようにしたところで、見慣れない者たちの姿が目に入った。
(なんだ、彼らは)
四十前後の男が、数人の従者らしき人達を連れて歩いていた。主人一人に、従者四人。従者の一人がロバ一頭を引いていた。
この町で見かけたことのない容貌の集団だった。
旅装、というのだろうか。主人以外はリュックのようなずだ袋を担いでいた。ロバはそのずだ袋が両脇に二つずつ、計四つが乗せられていた。
男も含めて、全員が疲れを顔に滲ませていた。足取りは重く、今にも倒れ込みそうだった。
「彼らは行商人だ」
春樹の視線に気づいて、ゲオルグが説明してくれた。
「何を扱っているのですか」
「行商人によって様々だが、この辺りには、塩を商いにくることが多い」
塩分というのは、生きていくために必要だ。塩は海水か、岩塩から手に入れるのだろう。この辺りに海はないし、岩塩も産地でなければ採れないないだろう。
塩ならば、問題なくさばけそうだ。
「あと、奴隷だ」
「奴隷」
日本では考えられない商品だ。
「この町にもいるのですか」
「ああ、少ないがな」
ゲオルグの答えに、春樹は驚いた。
「……いるんですか?」
「どうした、どの町でもいるぞ」
ゲオルグが不思議そうな声をだす。春樹はゲオルグの表情に、慄然とした。はじめて、この国に来て違和感を持った。習慣や価値観について、今までは違いを感じたことがなかったのだ。
奴隷、がいる。そんな国なのか、ここは。
恐怖よりも、嫌悪が先に走る。
「さきほどの行商人は、奴隷商人ではない。奴隷は基本的に五人を単位として首と手を縄でくくられている。とはいえ、従者が奴隷であることは多いがな」
「簡単に逃げられるじゃないですか」
「それは、扱い方によるぞ。普通に衣食住を提供すれば、別に逃げることもない。家族のようになる奴隷もいる」
「なるほど」
それはそうだ。
春樹も考えてみれば、ゲオルグから給与をもらっているわけではない、つまり労働力を無料で提供していることになる。それでも、今のところどこかに逃げようと思ってもいないし、どちらかといえば感謝している。見方を変えれば、これは奴隷と同じなのだ。
「だが、奴隷を使い捨ての道具のように扱う者も多い」
ゲオルグがそう声を潜めた。
その時だ。
鈍い音が通りに響いた。
振り返ると、行商人の男の前で小柄な従者が倒れ込んでいた。従者が運んでいた袋が足下に落ちていて、商品らしき革細工がこぼれていた。
「この、馬鹿がっ!!」
罵倒というよりも呪いの言葉。それは呪詛だった。腰を落とした従者の胸ぐらをつかむと、男は頬を叩いた。
何度も、何度も。
憎悪を叩きつけるように、頬をぶった。それに逆らうでもなく、従者はただただ打たせるに任せていた。それは、こういった仕打ちになれてしまい、あきらめたものの態度だった。
その従者の顔がちらりと見えた。まだ子供。そしてひどい顔だった。肌はがさついており、毛羽立っていた。何よりひどいのは、瞳だ。
何もかもあきらめた、そんな暗い瞳だった。
その瞳が春樹に問いかけていた。
どうせ、あなたも何もしてくれないんでしょ。
春樹はその瞳にけしかけられるように足を踏み出していた。
「すみません、すみません、すみません」
共用語を叫びながら、従者のもとに走り込んで抱きかかえた。その軽さに戸惑い、従者の顔をまじまじとみるとまだ幼い子供だった。
春樹は、行商人の男と、従者の間に体を滑り込ませる。
その瞬間。
「つうっ」
右の後頭部に一発、男の平手打ちをくらって春樹の口から声が漏れた。
「なんだ、お前」
それに答えられるほど、春樹は共用語が堪能ではない。だから、日本語で答えた。
「あまりに、非道いでしょう。やりすぎだ!」
男が眉尻を上げる。
「------!!」
激高した様子で、手を振り上げる。春樹は腕で顔をかばうようにして、その殴打に耐えた。全く容赦のない打ち方だった。春樹は腕がしびれてくるのを、我慢した。この打擲を、顔に受けていた子供の痛みを思うと、ふつふつと怒りが湧いてきた。
「いい加減に……しろっ!」
春樹は立ち上がりざま、男の顔を思い切りぶった。
生まれてはじめて、人の頬を叩いたのだ。
叩かれた男の口から、血がこぼれた。口の中を切ったようだ。それほど容赦なく人を叩くことができる自分に、春樹は驚いた。
だが後悔はない。
ゲオルグに剣で迫られたとき以上に、春樹は対峙する男が憎かった。
春樹は、従者の子供を背でかばうように、男と向き合った。
「----!!」
短い罵倒とともに、男が短刀を抜いた。春樹の足にしがみつく子供の手が硬く握りしめられた。
安心しろ、と子供の手に春樹は自らの手を重ねた。
春樹は逃げる気など、毛頭ない。
春樹は周囲に視線を走らせた。幾人かが、家の軒先からこちらを伺っている。幾人かは、剣を持ち出して手に握っている。
どちらに加勢するのかは、正直わからない。
春樹のためなのか、行商人のためなのか。
春樹は、低く構えて、男の出方を待った。剣への対処は、たった二日だが、少しは習っている。全くゼロの状態と、どうしたら良いか分かっている状態は、別物だ。
春樹は油断なく相手の出方を待った。
その間にも、野次馬の輪がじりじりと狭くなってくる。ありがたいことに、どうやら町の人達は、春樹の味方のようだった。
人垣は、春樹ではなく、中心が行商人になるように作られていたのだ。
ここまできたら、相手が引くのでは無いか、と春樹は思ったが、どうやら男は冷静な判断ができないようだった。
一呼吸、息を吸い込んだかと思うと、春樹に短刀を突き出した。春樹はその剣先をなんとかかわして、相手の懐に入った。そして、短刀を握っている側とは、逆の肩を押した。
途端、男が体勢を崩した。
春樹は、間髪入れずに、相手の右足の腿を両手で持ち上げた。このまま、男を投げ捨てて、馬乗りになる--予定だった。
そのとき、男の短刀がひらめいた。
春樹は体を反らして、避けようとしたが、左耳に激痛が走った。
ここで怯んでいては、つけ込まれる。春樹は、痛みを無視して、男を投げた。そして、その勢いのまま、男の馬乗りになって顔面を殴りつけた。拳の先に、嫌な感触が残る。それを三度、繰り返したところで、肘を捕まれた。
ゲオルグだった。
「その辺でやめておけ」
春樹の手は赤く染まっていた。
落ち着いて見てみると、男の鼻はつぶれ酷い面相だった。春樹は荒くなった呼吸を整えると、立ち上がって後ろの従者の子供を見た。
子供は、春樹のほうに駆け寄ってこようとして、足がもつれた。春樹はそれを支えて、ほほえみかけた。
「もう、大丈夫だよ」
そこまで、言ったところで、耳の痛みが唐突に春樹に襲いかかった。
手を耳に当てると、粘りのある血糊がべたりとついてきた。
それを見たとき、春樹はふぅと世界が回った。
そして、そのまま闇に吸い込まれるよう意識が遠のいていった。