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谷川秋子税理士事務所は、マンションの一階にある。

 春樹の母、秋子の税理士事務所だ。


 つまり春樹は、二世税理士ということになる。

 跡継ぎがほしい、と言っていた秋子の要望に応えたことになるのだが、押しつけられたという意識はない。春樹は、自分の意志で税理士になったのだ。

 正直にいえば、とくになりたい職業もなかった、というのが本音ではあった。小学校の時の卒業文集には、将来になりたい職業に、サラリーマン、と書いた記憶が残っている。秋子の職業のことは知っていたが、税理士になるなんて、面倒だと思っていたのだ。秋子は強く跡継ぎになるように強制してくることはなかったものの、期待していることは春樹にも分かった。秋子をがっかりさせるのが嫌で、税理士になったようなものだ。


 なってみると、税理士というのは地味な仕事だった。

 今日のように、研修の講師をする、というような表にでる仕事はあまりない。毎日の作業は、預かった資料をチェックして、仕訳の起票をして、総勘定元帳を作って、月次の試算表を作成するという繰り返しだ。

 決算を組んで、法人税の申告書を作成して、税金の計算をし、納付書を渡す。

 単純なルーティンワーク。


『なに言ってんの』


 仕事の単調さについて愚痴ったときに、秋子が肩をすくめた。


『専門家っていうのは、同じ作業の繰り返しをつづけるから、専門家になれるの。仕事ってそんなもんでしょ。毎日、違うことばかりやってる素人に、誰がお金を払ってくれるの』


 秋子は独り身である。

 春樹が5歳の時に、父の夏夫と離婚したのだ。夏夫は離婚するにあたって、春樹の姉である真冬を連れて行った。

 離婚してからも、何度か父とは会った記憶があるが、それも数回のことだ。秋子から、夏夫から養育費をもらっているという話は聞いていない。たぶん、真冬と、春樹自身で相殺されていたのだろう。

 真冬とは、両親が離婚をしてから一度も会っていない。ただ、弁護士になったという話だけは聞いていた。


 谷川税理士事務所のガラスの戸を引くと、カラロンと鐘の音が響いた。扉の内側についているドアベルが今日も春樹を出迎えてくれた。

 この音を聞くと、帰ってきた、という実感が湧く。

 パブロフの犬みたいだ。


 事務所に入ると、正面に事務机があり、左手の壁には書棚が並んでいる。書棚は税務通信や、納税通信といった専門雑誌のバックナンバーと、税理士会報の過年度綴りでほとんどが埋まっていた。

 右にはやや大きめのガラス窓があり、奥には両袖机がある。手前の事務机を春樹がつかっており、奥を秋子が使っていた。


「お帰り。どうだった研修は?」


 その奥のデスクに座った秋子が、パソコンの画面から顔を上げて春樹に視線を投げた。


「まあ、無難にこなせたと思うけど」

「受講者はどれくらいだった」

「四十三人」

「ふーん、まぁそんなもんかな。大川さんにはちゃんと挨拶してきたの」


 湊商工会議所の事務員の方の名前を秋子が挙げた。


「あ、忘れてた」

「あほ」


 一言。

 そして、すぐに受話器を春樹に渡す。

 電話しろ、という意味だ。

 春樹は、諳んじている電話番号を押して、大川さんに取り次いでもらい、お礼を言って、またこのような機会があったら、声をかけてもらうよう頼む。


「研修みたいな仕事は、人間関係だからね」


 こういうフォローが大切だということは、頭では理解しているものの、毎回しっかりするというのは案外面倒くさいものだ。

 そこで差がでるのだろう。


 秋子は壁時計を見て、席を立った。


「そろそろ夕ご飯にしよう」

「僕も手伝うよ」


 後に続こうとして、秋子が手を上げて見せた。


「ハル君は、今日の研修の反省点と、改善策をまとめておいて」


 秋子は、二人きりの時は、春樹のことをハル君と呼ぶ。

 お客さんが見えるときは、『春樹先生』か、というとそんなこともない、ただの『春樹』だ。


 カラロロン。

 ドアベルを軽快に鳴らして、事務所から出て行く秋子の背中を、春樹は見送った。

 その頭に白い髪がまばらに混じっているのが見て取れた。ここのところ、腰が痛いようなことも言っていた。もう五十歳を超えているのだから、仕方がない面もある、しかし秋子にはどんなときでも元気で、上から目線でよいから、叱りつけてほしい、という思いも春樹にはあった。


 父の夏夫がいなくなって、秋子がふさぎ込んでいた時期のことを春樹はよく覚えている。春樹を一人で背負って生きていくことに、まだ秋子は覚悟ができていなかったのだろう。別に、毎日泣いていたとか、春樹のことをぶったとか、そんなことはなかった。そういう弱さを秋子は、春樹に見せたことはない。あの時期、秋子は間違いなく元気がなく、何かをいつも考えているようだった。

 何より、作ってくれる料理がどれも美味しくなかった。

 はっきりいえば、不味かった。

 秋子は食べ物にはうるさい。

 醤油の薄口と、濃口を料理に合わせて使い分けるようなこだわりがあった。

 たぶん、たいしたことではない。

 レシピの、小さじ、大さじを気にしなかったり、水にさらしたほうがいい、ナスやゴボウをそのまま炒めたりしていたのだろう。

 ただ、秋子の几帳面さを知っていた春樹は、その料理の中途半端な味付けから、どうしようもなく母が疲れていることを痛感したのだ。


 最近は、そんなことも無くなった。

 確定申告期間の、2月末から3月半ばにかけて、料理が手抜きになることはあったが、まぁそれは職業柄仕方がないといったところではないか。


 今は、6月。税理士にとって、一息つける時期だった。


 それを理由に、春樹は引き出しの中から折り紙を取りだした。

 姉の真冬が春樹に残した唯一のものが、折り紙という趣味だった。子供の頃、真冬と折り紙で、色々と作っていたことを、春樹はかろうじて覚えていた。

 両親が離婚したことを、春樹は当初理解していなかった。だから、姉と会ったときに、新しく折れるようになった折り紙を見せて、びっくりさせてやろう、と思っていたのだ。結局、披露することはなかったが、春樹はずっと折り紙を作り続けていた。


 春樹は、リスを折りはじめる。


 そんなに難しい手順ではないが、最初の折り目の付け方がまっすぐになっていないと、できあがりに雲泥の差ができる。


 折って、戻し。折り目をいれて、中を潰す。

 単調の作業を黙々とこなす。


 しっぽができる、前足ができる、顔ができる。


 リスが手の中で呼吸をはじめるかのようだ。

 この過程が、折り紙の醍醐味だった。


 机の上に、一匹のリスが現れた。

 それを見て、春樹は心の中で喝采を送った。

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