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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第二章
18/103

18

 大きな木箱に、干し草を詰め込みその上にシーツを敷いた寝台で、春樹は寝返りを打った。

 この国にきてから、二回目の夜だ。


 風が今夜も鳴っていた。


(この風があるから、まだ落ち着いていられるかのかも知れない)


 風がなければ、闇に溶け込むような静寂しか残らない。

 窓を見ると、うっすらとした月が出ていた。しかし部屋の隅にまで、その恩恵は届いていない。

 日本では経験したことのないような闇だ。のっぺりとした黒を幾重にも重ね合わせたような濃厚な漆黒。その闇に何者かが、うずくまり息を潜めているような、そんな感覚。


 春樹は意識的に、その闇から視線をそらした。

 そして、母のことを思った。

 突然、消えた息子のことを秋子はどう思っているのだろう。失踪か、それとも事件に巻き込まれたと考えているのか。或いは何らかの要因による事故があったと考えているのか。

 または、と別の方向に思考を巡らす。

 日本では、まったく時間が経っていないのか。

 春樹が、扉をくぐり抜ける瞬間に見ている夢のようなものか。

 突然、見知らぬ場所に立っていたことを考えると、なんでもあり、なのではないだろうか。


 不思議と郷愁の念はなかった。


 どうしても、日本に戻りたい、というような想いは、春樹の中にはないようだった。これが自分でも気づかない強がりなのか。それとも知らない国にいる高揚感から、気持ちが紛れてしまっているからなのか、それは今の春樹には知りようがないことだった。


(死にそうにもなったんだけどな)


 昨日、ゲオルグに襲われたとき、あの時に春樹は死んでしまってもおかしくはなかった。

 それなのに、この国そのものに対する恐怖感はなかった。平和であった日本に戻りたいという思いも、強くは無い。

 無いわけでは無い、というのが正確だ。


 日常にそれほど執着していなかったのかも知れない。

 友人はそれなりにいた。しかし、春樹がいなくなって、寂しく思ってくれる友人はいるだろうが、泣いてくれる友人はいないだろう。

 つきあっている彼女もいない。

 昔は、つきあった女性はいたが、長続きしなかった。

 泣いてくれるとしたら、秋子ぐらいだ。

 なんだか、パッとしない。


 春樹は、脈絡なく走り出した思考を打ち切るように、寝返りを打った。

 秋子が悲しんでいないこと、とにかくもそれが春樹の願いだった。



 ☆



 日が昇って、書斎に行くとゲオルグがすでに執務を開始していた。


「遅れて申し訳ございません」


 春樹が頭を下げると、ゲオルグが苦笑を漏らした。


「何時から開始するということは決めていないのだから、気にするな」


 上司が先に来ていて、仕事をしているというのは、春樹の価値観からすれば許されないことだ。

 明日からは、もう少し早く起きよう。

 だが、何時に起きればいいのか。

 そこまで思考を流してから、春樹は、はた、と困った。そもそもこの国には何時という概念がない。そのため、何時に起きる、という言葉は意味がない。

 いや、さすがに時間そのもの概念がない、ということはあるまい。


「ゲオルグ様、少しお聞きしてもよろしいでしょうか」


 春樹は自分の机の上に書類を並べてから、畏まって尋ねた。


「この国は、どのように時間を管理するのでしょうか」

「時間を管理する、とはどういう意味だ」

「例えば、お祭りの際に、何時から開始するか事前に決めておけば、運営が楽でしょう」


 ゲオルグは得心がいったような顔つきとなった。


「お前が言いたいのは、鐘のことだな」

「鐘……ですか」

「そうだ……うーん、実際に聞いてみると分かるとは思うが」


 ゲオルグが耳を澄ますように、遠くに視線を向けたときだ。建物の外から、かすかに鐘の音が聞こえてきた。

 それは意識しないと聞こえないような音だが、たしかに鐘が鳴る音だ。その音色は、クリスマスの聖歌隊が鳴らしているハンドベルのような甲高い音だ。鐘の響きには、一定の音律がついていて、重なるように人の声が聞こえてきた。どうも歌っているようだ。


「あれが、そうですか」

「そうだ、昨日も鳴っていたと思うが」

「そうでした……でしょうか」


 春樹は昨日の記憶をさらってみるが、どうにも手触りがなかった。


「確かに、少し聞き取りにくいかも知れんな」


 その表現は、かなり控えめだ。耳を澄まさないと、聞こえないような小さな音だ。


鐘鳴人(ベルント・ポプロ)は、ゼノのかみさんなのだがな、こいつがものぐさでな。本来なら広場まできて鳴らさないといけないのだが、家の前に出て鳴らしてすぐ引っ込んでしまうのだ」

「それは、注意するべきなのでは」

「そうなのだがな。無償でやってもらっているので、言いにくいのだ。もし断られたら、次のなり手もいないしな」


 ゲオルグは、人差し指と、親指で目の間、鼻の上のほうを揉んでいる。


 無償……か。

 それは誰でも嫌だろう。決まった時に、鐘を鳴らすというのはかなりきつい仕事だ。常に時間を気にしていないといけないし、自由に出歩くことすらできない。

 それを無償というのは少々酷というものだ。

 ならば、どうするか。ビエントの町の帳簿は見ていないので、その財務状況はわからないが、ゲオルグの表情を見るかぎり、余裕はなさそうだ。


「その鐘を鳴らす役目をしてもらう代わりに、何か特典を与えてはいかがですか」

「特典……」

「お金を払うのではなく、何かの権利を与える、或いは本来ならできないことの許可を与えるとか」

「例えば、どんなものがある」


 ぐっ、春樹は答えに詰まる。この国の生活経験がないため、どういったことを喜ぶのかが、春樹には思いつかない。

 思いつかないが、言い出した手前、何かを言おうと頭をひねった。

 具体的でない提案など、無意味だ。


「この屋敷の前に、広場がありますが、この広場の使用権を与えるというのはどうでしょうか」

「安直だな」


 ばっさりだった。


「広場というのは、ビエントのような小さな町にとっては象徴的な意味がある。簡単に使用許可は与えることはできない……しかし、だ」


 ゲオルグは、机のうえで手のひらを合わせて、春樹と視線を合わせた。


「今のように、意見を言うのは良いことだ。これからも、思いついたことがあれば、意見を言ってほしい。今、私の下で働いてるものは、もともとビエントにいた者たちなのだが、どうも私に遠慮をするのだ。気はいい者たちで、がんばってはくれているのだが、対等に話すということができない。それをハルキがやってくれると、私も相談する相手ができて助かるのだ」


 ゲオルグの言葉に、春樹はちょっと体を引いてしまう。

 それは相談役という立場であり、自分の仕事ではない、と思った。そんなことは、この国や町の内情に精通した人間、まさにゲオルグのような人間が果たすべき役割であった。昨日今日この国にきたような、春樹がすることではない。

 ただ、春樹は単純な人間だ。


「ご期待にそえるよう、努力します」


 春樹は頭を垂れた。


 上官からの頼みは断ることができない。

 それに、やっぱり。目を掛けてもらえるというのは、嬉しい。


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