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寺子屋の授業は、まず日本語から始まった。
教師はゲオルグだ。
前に立って、教本を読み上げる。子供たちの手元には教本はない。それはそうだ、あんな手書きの教本がみんなに行き渡るはずが無い。しかし、みんな文句もいわず、必死になってノートにメモをしていく。ノートが一人一人にあるのっていうのも、十分な贅沢なのかも知れない。
イエナは、やや退屈そうだ。たぶんイエナには、日本語の授業は簡単すぎるのだろう。あれだけ、流暢に日本語が操れるのだから。
まず共用語で、ゲオルグがしゃべる。続いて生徒たちが頷く。
「空」
と、ゲオルグが口にすると、生徒たちも、空っっ、と元気につなげた。
外を指さしている、生徒もいた。
「湖」
春樹は、注意深く耳をそばだてる。そして、湖というのが、ラクス、という単語と対応しいることがわかった。それをゲオルグからもらったノートに書いていく。単語帳を作るつもりなのだ。最終的には、辞書を単語帳替わりに使うつもりだが、まずは文字も覚えなければいけない。ラクスという単語は、共用語でlacusと書くようだ。なんとなく、おいしそうだ。
共用語での授業だったので、九割方がちんぷんかんぷんだったが、残りの一割はうまく日本語と共用語をつなげることが出来た。なかなか、推測で言葉をつなぎ合わせていくのは面白い。
ヒアリングの訓練にも良さそうだ。
次の授業は、なんと剣術だった。
まさに、なんと、だ。
剣道はやったことがあるが、剣術だ。外に出ろ、というゲオルグの仕草に促されて、屋敷の外にでる。
爽やかな風が、ビエントの町の広場に吹いていた。さすがは、風の町だ。ビエントというのが、風、という意味であることをさっきの授業で春樹は知った。
子供たちは、競い合うように剣を手にして、広場に走り出ると、すぐにカンカンと剣を打ちつけはじめた。
ゲオルグが春樹の隣に立った。二本握られていた剣のうち、一本を春樹に渡す。
「お前に剣は必要ないだろうが、ずっと机仕事ばかりじゃあ、体がなまるだろ」
どうやら、お相手をしてくれるようだ。
春樹は、ずっしりとした重みのある剣を見る。テニスラケットよりも、かなり重い。重心は、やや剣先よりだろうか。刃先は、潰してあるがこんなもので打たれたら、骨折はおろか、死ぬ可能性もある。
春樹の懸念を見透かしたように、ゲオルグが頬を上げた。
「大丈夫。剣先を会わせる程度だ」
断る、という選択肢はないようだった。春樹は仕方なく、剣を構える。肘、それから手首に掛かる負荷がかなりきつい。
数合、剣を打ち合わせただけで、肘が悲鳴を上げた。
切られて傷を負うよりも、剣を振ったために、肘を痛めるほうが先のようだ。筆が持てなくなってしまったら、頼まれた仕事ができなくなってしまう。それでは、ここに置いてくれた、ゲオルグの期待に添えなくなってしまう。
剣士ではなく、事務官として春樹を必要とされているのだ。
冷静に考えて、春樹は一歩下がった。
「軟弱だな」
言葉は痛烈だったが、ゲオルグも春樹が顔をしかめたのがわかったようで、剣を降ろした。
ゲオルグはたいしたものだ。外見からは、かなりの老齢であることがうかがえたが、剣を操る姿にぶれが無い。さして切っ先から伝わる覇気があった。たぶん、人を斬り殺したことがあるであろう凄みがあった。春樹は剣を振るう前に、その気勢に押されてしまっていた。それにそもそも、剣を振ると、上半身はおろか、下半身からふらついてしまい、剣を打ち合わせるということがまともにできない。
春樹は、剣術の時間に、剣の練習と、筋トレをすることに決めた。まずは基礎的な筋力が足りていないことがわかったからだ。
目先のことより、根本的なところか鍛えていかないと、剣をまともに振れるようにはならないだろう。
子供たちが子供用とはいえ剣を振り回しているのに、大人の自分が剣をまともに扱えない、というのは、ちょっぴりかっこ悪いじゃないか。
「なんだいなんだい、なっさけないねぇ、いい大人がさ」
イエナの言葉が正直一番、堪えた。
剣術の時間が終わると、社会、算数と講義が続いた。社会は、この国の形を、算数は、計算を習った。足し算、引き算ができるというのは、この国ではかなりのエリートであるらしく、子供たちは目を輝かせて授業を聞いていた。
ゲオルグも、楽しそうに教鞭を振るっていた。
夕方、再び、書面の作成をした。
前回提出された書面を写す作業だ。つまらない事務作業といえば、その通りなのだが、こういう書面こそきちんとすれば、評価される。それに前回の書面が、いちいち誤字や脱字がちりばめられているため、やりがいもある。
第四十三期 定期報国
表題に、そう書かれていたときは、さすがに脱力してしまった。なんだ、定期的に報国するのか。まあ、報国は常にしていないといけないのだろうが。