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ハルキが無言のまま月を見上げている。
柔らかい風が、ダニエルゼの肩の上をすべって後れ髪を揺らすのがわかった。
再び、ハルキの横顔を見る。瞬きをする以外は、瞳すら動いていない。
昼に話したフリッツというコックの話を思い出しているのだろうか。
奴隷を所有しているフリッツの給与や、評判を調べたのは、ハルキの誓いである奴隷解放のためだろう。フリッツの評判が悪くないことに、ハルキは酷く驚いていた。
奴隷手当というものが支払われていることは、ダニエルゼも知らなかった。奴隷を養うにもお金がいるのだから、その賄い費だろう。
一人の奴隷の労働を、80キルクで買っているのだ。そして、そのお金が奴隷に渡されずに、所有しているフリッツに渡されている。
どうして、その僅かな報酬すら奴隷本人に渡されないのか、それがハルキには納得がいかないのだ。
(いや、違う)
ダニエルゼは、庭に飛び交う蛍の光に視線を移した。
(もっと、根本的なところなんや。ハルキは奴隷という存在そのものを頭で理解はしても、感情で理解できてない)
奴隷という制度の存在、そうして今日分かったように明確に経済活動の中に組み入れられているという事実、それらが許せないのだろう。
ダニエルゼも奴隷という制度が好きではない。好きではないが、それは事実として目の前にあるものだ。それを嫌うことはあっても、理解できないことはない。
そのあたりが、ハルキと根本的に違う。
ダニエルゼが一般的な反応で、ハルキは言うなれば異常だ。
周辺国家で、奴隷がいない地域は聞いたことがない。
(どんなとこから、来たのやろ)
淡い光を身に宿した蛍が、ダニエルゼの前をくるりと回って見せた。そして、滑らかな線を引きながらハルキに向かって飛んでいくと、耳のあたりの髪にとまった。
ハルキの黒い髪、黒い瞳。
黒髪は、南方の地域にいる人種の特徴だと聞いたことがあるが、公都では滅多にみない色だ。聞くところによると、幼い頃は、淡い茶色だが、年を重ねるごとに黒く染まっていくのだという。
黒い瞳の色も、あまり見ない。よく見ると、茶色が混ざっているが、全体として黒が勝っているために、黒と表現するのが良いだろう。
顔立ちは、どちらかというと、整っている……のかも知れない。先日、財務府の書記室で噂好きの同僚がハルキのことを、かっこいい、と評していたのだ。
ハルキで印象に残るのは、やはり黒い瞳だろう。落ち着いた色をした瞳は、強い意志と、深い知性を連想させる。
とはいえだ。かっこいい、か、かっこわるい、かの二つでしか男のことを表現しないような女たちの噂話だ。
まじめに取り合う価値もない。
『奴隷制度は、廃止できるんか』
ダニエルゼが伺うように問うと、ハルキはきっぱりと首を縦に振った。
『できる』
その自信に満ちた断言にダニエルゼは面食らった。
『ほんまに?』
ダニエルゼの語尾が極端に上がった言葉に、ハルキは苦笑した。
『できる……はず』
今度は、少し及び腰だ。でもこちらが本音だろう。
『今すぐには無理だ。いくつか理由がある』
ハルキはダニエルゼに向き直って、説明をする。
『まず経済に組み込まれている。もし廃止するとすると、それだけで人手不足が発生して、ソーラス城ですら機能不全になってしまう。廃止するなら、ある程度期間を設けて段階的に廃止していく必要がある。次に、奴隷制を廃止すると、奴隷を所有している者たちの権利を害することになる。恐らく、何らかの法律的な手当が必要になる。それから、これがもっとも根源的で、乗り越えなければいけない高い壁だが、奴隷制度が社会全体で是認されているということ。つまりひとつの文化として、生活に根付いている。だからだれも、奴隷制度に関して疑問を持っていない。つまりは、私が、奴隷制度廃止と声高に叫んでも賛同してくれる人がいない』
ハルキの声は、沈んでいるわけではなかった。また昂揚しているでもない。ただ事実をそのまま並べていた。
たぶん、ハルキが一番、頭を使っているときの話しかただ。
話の内容としては、聞いているだけで疑問符ばかりわいてくるような話だ。
『本当に、解放できるんかいな』
『できるさ。経済に組み込まれているとは言っても、奴隷を所有するのは冷静に分析すれば、金銭的には損だ。それを理解できれば誰も奴隷を買おうとはしなくなる。所有することの裏付けとなっている法律は、イエナが公爵となれば改正することができる。そして文化として根付いていることに関しては……まあ、これが一番時間がかかるだろうな』
ハルキは月を見上げた。
『結局、文化というのは、民衆が自然と息をするように作り出しているものだから、上から押しつけて変化させることはできない』
『じゃあ、どうするの』
ハルキが、視線を空にある月からイエナへと移動させた。
『簡単な話だ。息ができないようにすればいい。そうすれば、民衆自身が息苦しくなって、その文化を変化させる』
抽象的な話だ。
『具体的には』
『奴隷に対する信頼感を無くさせる』
奴隷に対する信頼感。
言っている意味が分からなかった。
『まあ、それもまだ先の話だ。とりあえず今は、目の前にあることをそのまま受け入れるしかない』
蛍の乱舞が、庭全体に広がっていた。
雲が途切れ、月の光が花壇の小さな花々に降り注ぐ。まるで光の噴水のようだ。その月明かりにも負けないような、強い光を放つ蛍がゆらゆらと楽しげに舞っていた。
2匹、3、4匹、さらに1匹。
輪を作るように、蛍の光が夜空に線を描く。
ひとつひとつは全く無関係に飛んでいるのに、まるで申し合わせたように光で綺麗な模様を作り出す。
その蛍のダンスを、ダニエルゼとハルキは飽きもせず、時間を立つのも忘れて見つめ続けた。
☆
次の日の朝。
ダニエルゼは、ハルキ、ニコ、シータと食卓を囲んでいた。
太陽はすでに夏の気配で部屋の中を満たしていた。野菜を口に運んでいるだけで、じんわりとした熱を感じた。
『奴隷手当というものが支払われていたのか』
ニコがコップを片手に、首をかしげた。
『不思議か』
ニコはハルキに向き直った。
『奴隷の労働に対価が出ているというのが、どうにも感覚的に受け付けなくて』
『だが奴隷本人への支払いではないんだぞ』
『そうだとしてもです』
ニコが疑問を投げるなかで、シータは黙々と食べている。
『奴隷の形態も様々ということだろう……ところでイエナ』
ハルキは、奴隷の話はこれでおしまいというように、ダニエルゼに言葉の先を向けた。
『財務府の仕事は順調か』
いきなりの話に、ダニエルゼは二度瞬きをした。
『順調やよ』
『何か、数字でおかしいところはないか』
『おかしいも何も、おかしいところに気づきようがない帳簿やしな』
ダニエルゼは、毎日、書記室で作成している帳簿について説明した。
ノイマールは、複数の現金出納帳をつけている。各地域の地方官吏の現金を別帳簿にして記録しているのだ。ノイマール領の全体でいくらあるかはまとめていない。また、貸付金や借入金帳簿も各地域の地方官吏ごとに作成しており、それぞれの地方官吏がばらばらに公都に帳簿を送ってきているのだ。ダニエルゼが作成しているのは、それらの帳簿を写しとった帳簿だ。写し終えれば、原本はノイマールに送り返している。
基本的に、帳簿は各地方ごとに作成されており、それが合算されていない。各地方の現金、貸付金、借入金は把握されているが、それがノイマール領として統合されていない。
『合計すればいいだろ』
『自分が担当している帳簿以外の帳簿の中を見るのは、全く咎められないのに、今までやっていた方法を変更するのは強く反発されるんやこれが』
ダニエルゼがノイマールの帳簿をかき集めて、一覧性のある表を作成しようとしたところ、待ったが掛かった。
『勝手にやるな、と言われたんや』
『でも、勝手にやったんでしょ』
ぼそりと呟いたのは、シータだ。
ダニエルゼはにんまりと笑って見せた。
『さすがシータ。ようわかっとる。目を盗んで作ったった』
『それはいまあるか』
『書記室にある。ただ、それ見てもあんま意味ないと思うけどな』
『残高が書いてあるだけなんだろう』
ニコがダニエルゼの言葉に同意する。
『そやね。残高がただ羅列されているだけで、何に使われているのかもようわからん帳簿や』
『その残高すら、疑わしい』
ハルキが断言した。
どうして、というニコにハルキが答えた。
『本当にその残高あっているのか、保証がないからだ』
『それは……』
ニコは言葉に詰まって、口を閉じた。
『たしかにそうかも……イエナ、その辺りは何かチェックはしているのですか』
ダニエルゼは腕を組む。
『少なくとも私は知らへん』
『第三者のチェックが全く入っていない帳簿なんて、ただの紙切れだ。とはいえ、だ。その状態で構わないから、一度見させてくれ』
ハルキの言葉にダニエルゼは頷いた。
そもそも作ったはいいが、使い道がなくて財務府の書記室にあるダニエルゼの机にしまい込まれているだけのものだ。誰かに見てもらえたほうが作った甲斐もあるというものだ。
『じゃあ、昼に持って帰ってくる。どうせ、ハルキは部屋で暇しているんやろし』
『ちょっと待って』
シータの横やりが入る。
『ハルキ様は、我々の今後のことについて、戦略を練られているんだ。さっきの言い方では、まるで無職の暇人のようではないか』
『事実、その通りやろ。私は毎日、財務府に勤めに出ているし、ニコやシータも騎士学校に行っているけど、ハルキだけはぼんやりと部屋で過ごしているんやしな』
ダニエルゼが言い返すと、シータの瞳が剣呑な輝きを放った。それを押さえたのは、ハルキだ。
『まぁ、イエナが言うことは一理ある。ぐうたらしているのは事実だし』
『ハルキ様、それは』
シータがむくれたところで、扉からノックの音が聞こえた。
瞬間、全員が口をつぐんだ。そして、お互いに顔を見回してから、頷いた。
「どうぞ」
ダニエルゼが共用語で声を掛けると、シータが音も無く扉に近づく。ニコとハルキは立ち上がって、扉に向き直った。
そして公女殿下の召使い然として、ややうつむいたシータが、静かに扉を開けた。
扉の前には、従者を連れたアバーテ伯爵が立っていた。いつもと変わらぬ長い髪をくくっている。
夏に見ると、暑苦しいことこの上ない。
「これはアバーテ伯爵」
椅子から立ち上がらずに、ダニエルゼが手を上げた。
「非常識な時間に申し訳ございません」
アバーテ伯爵が深々と頭を下げた。これにダニエルゼは笑って応じてみせた。
「私は、昼間は財務府に参っておりますので、お目にかかれる時間が限られております。お気になさらずに。……さあ中へ」
そこでようやくダニエルゼは立ち上がって、食事をしていた席とは別の奥のテーブルへと伯爵を招いた。
こういう上下関係を意識した対応も、段々と板についてきた、とダニエルゼは自分自身を評価する。
「食事中に恐れ入ります」
アバーテ伯爵は再び頭を下げると、従者達には外で待つように指示して、自らは部屋に足を踏み入れる。
伯爵の視線がテーブルに注がれる。
「ひとつのテーブルで食事を?」
「はい。部下とのコミュニケーションも大切でございますので」
まことに左様で、と伯爵が畏まる。伯爵の表情を見つめるが、言葉通りに伯爵が受け止めているのか、ダニエルゼには読み切れない。
ダニエルゼが座ってから、伯爵に着席を促す。
ハルキと、ニコ、シータはアバーテ伯爵の視線の隅に入るように、列立する。
「さっそくで申し訳ないのですが、朝の私にはあまり時間がございません。ご用件をお聞きしても?」
貴族の訪問には通常、時候の挨拶がつきものだが、そういうものをすっ飛ばすようにダニエルゼが命じた。
アバーテ伯爵も予想していたのか、会釈をしてから話を切り出した。
「実は、ご報告したいことがございます」
今さらですが、明けましておめでとうございます。
本年も、公爵家の財務長官をどうぞよろしくお願いします。
平成29年1月9日 多上厚志