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 かすかな朝の気配がした。

 谷川春樹(たにがわはるき)は、眠気が残る頭を振りながら、ベッドから足を降ろした。ぼんやりとしたまま、目の前にある邪魔のものを手で払う。カーテンだった。

 ベッドには天蓋がついていて、赤いカーテンが左右から垂れ下がっている。


 一瞬、春樹は自分がどこにいるのか分からなくなって、混乱した。


 ゆっくりとまだ薄暗い部屋に視線を巡らす。

 この部屋はどう控えめに見ても、装飾過多だった。机の縁には、レリーフが施され、使い勝手が悪そうだし、セットになった椅子も背もたれが無駄に飾り立てられており、座ると背中が痛そうだった。壁に掛けられた絵画は、額のほうが重そうで、頭に落ちてきたら大けがをするのが確実だ。床に敷き詰められた絨毯は細かい模様が編み込まれており、職人がかなりの年月を掛けて仕上げたものだとわかる。


 そう、と春樹は今一度の自分の立場を再確認する。


 春樹は、ソル公爵家の名代として、イグニス公爵家を来訪しているのだった。もともとは、公爵閣下ご本人の訪問を、とイグニス側は要望してきたのだが、公爵自らがわざわざ足を運ぶというのは、両家の力関係上好ましくないと春樹が反対したのだ。つまりは、軽く見られるから、本人が行く必要はないと春樹が進言したわけだ。公爵もこれを聞き入れて、春樹が出向くことになった。

 春樹がワードローブを開くと、黄色を基調にした衣装が揃っている。ソル家の色は、黄色。そのため、イグニス家が気を利かせて、衣装を誂えてくれたのだろう。とはいえ、春樹は、自分で持ってきた服にしか袖を通す気はない。他家が用意した衣装など、怖くて着られたものじゃない。

 春樹は黄色の衣装の脇に掛けた緑のサーコートを取り出して、袖を通す。

 そこにノックの音が響いた。


「ハルキ様、お目覚めでございますか」


 伸びのある若い女性の声。


「ハルキ様」


 いま一度、声が掛かる。

 その声を、春樹が聞き間違えるはずがなかった。春樹の護衛にして、ソル公爵家の忠実なる騎士。

 春樹が赤い扉を開くと、銀髪の女が跪いていた。


「おはようございます。ハルキ様」

「おはよう」


 女が顔を上げる。女、少女、どちらで表現しても、どこか違和感がある。そんな年齢の女だ。女は美しかった。銀髪に銀眼。神が手がけた完璧なアーチを描く鼻梁。唇は薄く、新雪のような肌。美人は三日で飽きる、というが、知己を得て五年が経つというのにいまだ春樹は女の顔を凝視することを躊躇ってしまう。気恥ずかしいという気持ちと、あと何となく自分自身が薄汚れた矮小な生き物であるような気がしてしまうのだ。


 女は、無言のまま部屋の隅に立つとその場に仁王立ちになる。

 春樹の護衛が女の役割なのだから、決して間違っていないのだが、どうにも落ち着かない。

 春樹が窓をあけると、朝陽がシャワーのように降り注ぎ部屋の中にあった夜の気配を綺麗に拭いさる。

 外を眺めると、あきれるように広い庭園が目に入ってくる。高木は極端に少なく、基本的には低木で誂えた庭だ。中央を幅十メートル程度の道が真っ直ぐに走っており、その先は門につながっている。しかし、その門がかすんではっきり見えないほど遠い。その道を挟むように芝生が敷かれ、花壇が規則的に作られている。花は、赤、黄、といった暖色を中心として、青、紫といった寒色がアクセントとしてちりばめられている。


 もし、こんな庭園をソル公爵が作ろうとしたら、春樹は猛然と反対する。

 公爵家の宮殿が貧相であってはならないが、豪華である必要はない。質実剛健、これがソル公爵家の家風なのだ。


「ハルキ様」


 再び、ノックの音。

 女よりもさらに若い、しかし今度は男性の声。


 無言で、女が扉に向かい、薄く開いた。


「何用でございましょうか」

 扉の隙間から、近習の少年が女を見て、目を丸くしている。彼が今までみた中で、女は一番の美人に違いない。


 あ、あの、と少年がどもりながら、話した。


「ソル公爵家の財務長官ハルキ様へ、イグニス家当主より、伝言であります」


 少年は、えへんと喉を鳴らした。


「ライザの間にて会談を行いたいとのこと」


 女が視線を春樹に向けた。春樹は頷きながら、口を開いた。


「心得ました、とイグニス公爵閣下にお伝えください」


 春樹の言葉に、近習の少年は頬を赤くさせながら頷く。


「もし不都合がなければ、今より私がご案内いたします」


 少年は、胸に手を当てるイグニス流の敬礼をする。


「わかりました。今すぐに参りましょう」


 イグニス家の当主はどうやら我慢が苦手なようだ。それは訪れる前から、情報としてつかんでいた。


「いよいよですね」


 彼女にしては、珍しく興奮した様子で、女が腰に下げた剣の柄を鳴らした。


「そうだね」


 春樹も高鳴る動悸を押さえられない。

 とうとうここまで来た。

 今日食べるものや、寝る場所にも困るような貧困、閉じ込められた洞窟、野盗に追われて逃げ惑った夜、いくつもの困難を乗り越えてようやく、春樹達はここまで来た。


 春樹はソル公爵家の財務長官という肩書きを手にした。

 日本からこの世界に来て、六年が経とうとしている。日本にいた頃の自分が、見知らぬ世界で公爵家の財務長官になる自分を見たら何と思うだろう。


 たぶん、悪い冗談だと思うだろう。


 日本にいた時は、毎日の仕事に追われて、将来のことなど全く考えていなかった。

 だが、今は違う。

 未来のために、今日があることを明確に意識している。


 ようやくスタートラインに立った。


 この世界に来て、立てた誓い。片時も忘れたことのない四人の誓い。


 その誓いを果たす。


 まだ、目指すべき世界は、遙か遠くかすんでいる。

 けれど、足下の道ははっきりと見えている。


 これからだ。これからなのだ。


 春樹は奥歯を噛みしめる。


「準備はいいか」


 春樹は女に視線を向ける。それを受け止めた女が深く首を縦に振る。


「はい」


 女が春樹の隣に立つ。

 春樹が先に立って、扉から出る。


 少年が紅潮した顔のまま、二人を先導して歩き出した。

 春樹はサーコートの襟元を整えると、深く空気を吸い込んだ。


 その空気は、希望という名の匂いがした。





 ☆☆☆





 目の前にあるのは、エレベーターのドア。

 ドアにちゅうい!、というステッカーが貼ってあり、男の子がドアに手を挟まれて泣きそうな顔をしている。エレベーターがガタガタと揺れる。


 その男の子の泣き顔が、なぜか自分のものに思えてきて、谷川春樹は軽く首を振った。


 左右対称に貼ってあった男の子の泣き顔のステッカーが割れる。


「谷川先生」


 春樹はエレベーターから、出たところで足を止めた。

 エレベーターを出た玄関ホールで、さきほどの研修で見かけた初老の男性が立っていた。


「はい、何かございましたか」


 春樹はあまり堅くならない程度に、かつ砕けすぎないように言葉を選んで、口の端だけで笑顔を作った。

 先生と呼ばれるようになってから、二年が過ぎようとしていたがまだ先生という肩書きには慣れない。


(こんな年配の方から、先生と呼ばれるほど、僕は大層な人間なのだろうか)


 たぶん、中身がともなっていないのだ。春樹はそう自らを分析をする。先生と呼ばれるたびに、先生という肩書きが自分を責めてくるような気がした。

 一方で先生と呼ばれるたびに、かすかな自己陶酔、あるいは何者かに対する優越感が胸に湧いてくるのも事実だ。


 馬鹿馬鹿しいったらないな、小さなため息を心の中に落とす。


「先生、ちょっとお聞きしたいことがありまして」


 男性は、『平成27年度相続税改正-注意点と活用-』と書かれた冊子を広げた。春樹が研修前に配ったものだ。春樹は、講師として相続税法の研修を行って、ちょうど講義を終えたところだった。

 少し長くなりそうだと感じて、春樹はエレベータから出てくる人たちの邪魔にならないように、脇へと体をずらした。


「相続税の基礎控除についてなんですが、相続人が兄と私と妹の三人なのですが、この場合いくらになるのでしょうか」


 男性が基本的な質問を口にしたので、内心ホッとする。教育資金贈与の有効性とか、二世帯住宅特例とか一言で答えにくい質問をされたら、立ち話では説明しづらい。


「よろしいですか、基礎控除は、平成27年度1月1日から変更されまして……」

 なるべく平易に、そして理解しやすいように、一般的な言葉を使って答える。

 男性は何度か頷き、疑問を出して、春樹がそれに答えると納得したのか、頭をさげてホールから出て行った。


 税理士として最低限の回答はできただろう。


 建物から出ると、夕闇がアスファルトの上に、ふんわりと漂うような時間帯だった。右手には、かつての湊城の跡地に作られた公園が見える。公園には城はなく、石垣だけが残っている。その石垣はたしか築城の名手とよばれた武将が築きあげたものだ。


(いや、当時の石垣を模したものだったかな)


 いまでも、その武将の銅像が公園の中央には立っている。

 その横をぶらぶらとしながら、湊市駅に向かう。

 遠くに聳えるのは地方銀行が最近建てた本社ビルだ。顧問先の社長が、あいつら私らから搾り取った利子で無駄なものを作りやがって、と罵っていたことをぼんやりと思い出す。

 公園を出て、左に曲がると、商店街に出る。湊市駅に向かうアーケード商店街は空き店舗が目出つ。空き店舗をどうにかしないと、うらびれた雰囲気になってしまい、いま頑張っている店舗まで悪影響が出てしまう。

 誰だって、活気のある商店街のほうが好きに決まっている。その店に用事があろうと無かろうと、照明がついて、人の気配があって、商売をしている、それが正常な商店街だ。

 空き店舗にするぐらいなら、無料でもいいから誰かに入ってもらったほうがまだマシなのだ。

 どうにかしようという空気は、以前からあるのだが、うまくいかない。


『なあ先生。商店街の地権者がばらばらなのが、だめなんよ。あいつらさ、何もする気もねぇのに、権利ばっかり言いやがってな。それにさ、もう年さ、みんな、みーんなね』


 商店街の会長がぼやいていた。


『別に土地が遊んでいたって、年金もらえれば生活には困らねぇし。ただで人に貸すのはいやだわ、自分では使わねぇわ。跡継ぎがいるわけでもねぇ。あとは蓄えた金で、年に何回か旅行にでもいって、のんびりすればいいってことなんさ』


 そうやって、会長は頭を搔いた。

 それを説得するのが、あなたの役割ではないですか、とは言わなかった。

 会長の額にもびっしりと皺が刻まれていた。若輩の春樹が口出すことなどできようはずもなかった。


 人口減少と、地方部の疲弊。


 漠然とした不安。

 曖昧模糊とした閉塞感。

 誰もが感じているのに、口にはださない苛立ち。


 猛烈に勉強をした。

 そうして手に入れた税理士という資格。

 決して、軽いものじゃない。けれど、自分が生きる道は本当にこれで正しいのか、このまま続けて良いのか、という自問がいつもわき上がってくる。


 大学時代にお世話になった恩師が言っていた。


『この世の中で一番役に立たない人間は、先生と呼ばれる人種だよ』


 恩師は、教授であり、先生と呼ばれる人種だった。

 自嘲気味に恩師は言った。


『サービスは提供しない、物はつくらない、形のない知識だけを提供する。つまりは、何も生み出していない。それなのにプライドだけは高い。それが先生だろ』


(最近、思いだすのは、この言葉ばかりだ)


 黄昏に染まる商店街を、春樹は歩く。

 道行く人は、早足で春樹の横をすり抜けて、先を急いで行く。視線の先では、遮断機が甲高い音を立てて、鳴り響いていた。


(僕は、この世界で、この社会で、何かの役に立っているのだろうか)


 春樹の鼻先をかすめるように、遮断機が下りてきた。


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