桶狭間での信長の言葉
桶狭間の戦いは、言うまでも無く今川義元の大軍を織田信長が寡兵で倒した戦いです。
この時、従来の通説では信長は奇襲にて義元の本陣を突いたという話でしたが、最近では奇襲ではなかったという説が有力(というより定説)となっています。
ただこの時、信長は変な言葉を吐いています。今川義元の本陣に突撃しようと言う時に兵達にこう言ったのです。
「敵は鷲津・丸根を攻めて疲れている」
ですが、鷲津と丸根を攻めたのは松平元康と朝比奈泰朝であり、義元の本陣ではありません。
ですのでこういう説があるそうです。
①信長は、目の前の敵を松平元康や朝比奈泰朝の兵と勘違いして攻めた。義元を討ち取ったのは全くの偶然である。
②信長は、敵の位置も状況もまったく把握できていなかった阿呆である。
確かに、信長公記には従来の奇襲説で言われている様に、義元の本陣の位置を簗田政綱が信長に伝えたという記述はありません。夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入り、信長は敦盛を舞って出陣します。
ですので、これだけを見ると、確かに鷲津と丸根を攻め落として疲れた敵を狙っていたとも取れなくもないです。つまり、進軍する敵に局地戦で打撃を与え敵の士気を落とし、味方の士気をあげるというものです。
ですが、その敵を攻める時、信長はこうも言っています。
「この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」
一大決戦に挑むが如き言葉です。局地戦には似つかわしくないとも言えます。まさに義元本陣に攻め込むに相応しい言葉とも言えます。
鷲津・丸根を攻めた敵は義元本陣でないのは明白なのに、義元本陣に向かうかのような決意の言葉。このちぐはぐさはなんなのでしょうか?
①の説では、義元の本陣に攻め込む考えではないので、こうはなりません。では、②の説でいう通り信長は阿呆なのでしょうか? それとも、敵の大軍の前にこの時だけ錯乱していたのでしょうか?
***************** 2014/12/30 追記 ***********************
また②の説の場合の根拠は、鷲津・丸根の両砦と桶狭間(山)の位置が全然違うからです。どれくらい位置が違うかというと’どうやったら間違えられるんだ’というほどです。織田軍の進路で言えば前と後ろの違いです。うつけと呼ばれゴロツキ達と領内をうろつきまわってい地理はよく知っていたはずの信長が、こんな誤認識をするなど、どれほど阿呆なのかと。
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ここで他の武将の話をしたいと思います。
三国志の時代、魏の曹操が行軍している時、兵士達が喉の渇きを訴えました。そこで曹操はこの先に梅の林があるので、それを食べて喉の渇きを癒せといいました。兵達の口には唾液が溜まり、喉の渇きを忘れたといいます。
本能寺の変で信長は家臣の明智光秀に討たれますが、羽柴秀吉は信長様は逃げ延びていると宣伝しました。結果、信長が生きているならと、明智に味方する者は出ませんでした。
そして信長です。
長篠の戦の時、どうやって敵の大将である武田勝頼を誘き寄せるかを軍議で話していると、家康の家臣である酒井忠次が武田軍の背後を脅かす策を進言しますが、信長はその様な愚作と怒り一蹴します。ですが、その夜、改めて酒井忠次を呼び、実はあれは敵に悟られぬ為の芝居、実に良い策だと酒井忠次にその策を実行するように命じます。
名将は嘘を付く。これが答えだと考えます。
休憩十分な敵だというのと、疲れ切っている敵だというのと。どちらが味方の士気が上がるでしょうか? 言うまでもありません。
つまり、信長は、兵の士気を高める為に戦って疲れている敵ではないと分かっていて嘘を付いた。のです。