第3章 その3 炎の守護精霊(改)
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「おかあさん!」
ジークリートの絶叫が自らの胸を貫く。
「母さん! 母さん!! 母さん!!!」
その眼で見ていながら、眼の前の光景を、何が起こったのかを理解できない。
倒れた母の胸に、大きく赤く開いた穴。
それが何なのか。どうなってしまうのか。わからないまま、恐怖に捕らわれて。ジークリートはただめちゃくちゃに頭を振って母の名を呼んだ。
「落ち着きなさい!」
母の鋭い声が耳を打つ。
ジークリートはハッと我に返り、母を見た。
ふっと、全身から緊張が解け、そのまま、母のそばにへたりこむ。
息子を叱りつけた後シャンイエラは息を整えようとした。
どうしても言っておかなければならない事がある。残された時間の少ないことを彼女はひしひしと感じていた。
「ジークリート、一度しか言わないから、よく聞いて覚えなさい!」
シャンイエラは息子の眼を見つめ、挑むように言った。
「……《イ・ユール・エ・グルオンシュカ》よ。覚えた? 言ってごらん」
これまでになく厳しい母の表情だった。ジークリートは驚き、息を呑んで、とまどいながら答える。
「イ・ユール・エ・グルオンシュカ……」
「いいわ、覚えたね」
確認するようにシャンイエラが言い、ジークリートはこくんとうなずいた。
「それが、あなたの精霊。火炎の王の名よ。呼ぶ時ははっきりと言うのよ」
こころなしか母の表情が硬い。
怖いほど真剣な、くいいるような瞳をしていた。
ジークリートは何も言えないでいる。せっぱつまったものを感じて。
母親の瞳に切ない色が揺れた。
愛おしさと悲しみ、怒り、無念とも言える思い、さまざまの感情が入りまじる。
母も無言だった。いま、いちばん口にすべき言葉を探すように、ひととき、息をつぐ。そして、
「これからは、自分の生命は自分で守りなさい!!」
まっすぐに息子の目を見て、こう言った。
ジークリートの背筋を、ふいに震えがはしった。なぜなのかわからない。
暗いのに、母親の顔ははっきりと見えた。
ふと、彼女は息子の頬に手を伸ばして触れた。指先は氷のように冷たい。
「……あたしの分まで、戦うのよ!」
搾り出すように叫んだ。それから、彼女の身体はくずおれた。
「お母さん!!」
弾かれたようにジークリートは母に飛びつき、揺さぶった。
その身体からはすでに温もりは失われている。
たった今まで、目を開けて話していたのに。
まるでとっくに命の火の消えていたものを、気力だけで動かしていたかのように。
もちろん、ジークリートの頭にはそんな考えは……母親の死を認める思いは、湧いてなどこない。あまりにも突然だった。
どんなに呼んでも起こそうとしても、もう母が二度と動かないことを、認めるのに、ずいぶん時間がかかった。
ジークリートは放心したようにその場にうずくまる。
もう少し時間があったなら、悲しみはやがて実感をともなって歩み寄ってきたかもしれない。だが、その余裕は、彼には許されなかった。
母の命を奪った魔導士たちが、ジークリートをそっとしておいてはくれなかったのだ。 黒衣の魔導士たちがジークリートを囲み、じりじりと近づいてくる。
「お別れは済んだのか」
皮肉な声を投げかける。
まるで彼らが、情け心からジークリートと母に時間を与えてやったのだと言わんばかりに。
うつむいていたジークリートが、すっ、と顔を上げ、無言で魔導士たちを見た。
白骨に皮だけを貼り付けたような青白い四つの顔が、闇の中に浮かんでいる。
「うう……」
ジークリートの傍らで、低い、うめき声がした。
ラスクだ。薄く、目を開く。
傷口は浅くはなかった。ラスクにはジークリートの顔が見えていただろうか?
「おばさんは……? ぶじか…?」
かすかな声でラスクが言う。
ジークリートは、体温を失いかけているラスクの手を握りしめ、しぼり出すようにつぶやいた。
「助けるから……! おまえだけは……」
母さんは死んだ。ラスクを守って。
……戦いなさい!
母の声がくっきりとよみがえる。
……あたしの分まで、戦うのよ!
母の遺言が導く。
ラスクには、自分の身に何が起こったのか、よくわかっていなかった。寒いのが深い傷のためだという事も、身体が動かない事も。
起き上がろうとして、ラスクはジークリートの肩を掴んだ。ジークリートの背後を見ているその目が、ふいに、驚きと恐怖の色を浮かべる。
ジークリートがラスクの視線を追い、振り返る。
魔導士の顔が目の前にあった。
「そちらの少年の方は死に損ねたか」
「そんな子供一人を庇って死に急ぐとは、つくづく愚かな女よ」
唇のない口を歪め、魔導士が冷笑する。
息絶えたシャンイエラの身体を、ジークリートは守ろうとするように引き寄せた。かれの後ろにはラスクがいる。母が生命をかけて守ったラスクが。
「無駄な事だ。その少年も長くはもたぬ」
魔導士たちが冷ややかに笑う。ジークリートは退かず、睨み返す。
「おお、それより今すぐ、とどめをさしてやろうぞ!」
魔導士の一人が、先の尖った白い杖を振り上げた。それは骨でできていた。
「やめろっ!」
目の前が真っ赤になったような気がした。
ジークリートの瞳が夜の底で血の色に燃える。危うさをはらむ深い赤だ。母の身体をそっと地面に降ろし、ゆっくりと立ち上がる。
「ほほう、戦う気だぞ」
「面白い、友を守るとでもいうのか。精霊巫術師の血筋とはいえ、まだ何の力もなかろうものを」
「身のほど知らずめ!」
魔導士の嘲りは、ジークリートの耳には入らなかった。全身が震えていた。
恐怖のためではない。
生まれて初めて、誰かを、殺したいほど憎んだ。許せない。
ラスクが力を振りしぼって叫んだ。
「逃げろジーク! おれはもうだめみたいだ、だけどおまえは死ぬな!」
ジークリートは、いやだ、と首を振った。逃げない。母を殺しラスクまでを殺そうとする奴らを、決して許さない!
……だめだ、ジーク、だめだ。おまえまで死んだら……
ラスクは叫ぼうとした。だが、もう、声が出なかった。
ジークリートは魔導士たちに向き直る。闇の中に浮かぶどくろと、骨の手足が見える。
……骨だ。骨だけだ。こんな奴ら!
ジークリートの瞳が、深紅に輝く。
魔導士たちを睨んで、
「おまえたちは、ぜったいに生かして帰さない…………!」
わずか九歳の子供だ。けれど心の底から響くようなその声には、闇の刺客さえも圧倒する、気迫があった。
空気が重い。魔導士たちはくいいるようにジークリートを見つめ、笑い出す。
「……ふ、ふ、ははは!」
引きつったような笑いだった。勝利を確信していた彼らが、ふいにだじろぎ、焦りさえ感じたのだ。
「生かして帰さぬ、だと! おまえにできるものか!!」
魔導士の一人が、怒りに我を忘れ、襲いかかってきた。
よければラスクが危ない。ジークリートはそいつに正面から立ち向かった。中身のない衣ではなく、剥き出した骨の手足めがけて突進する。
思わぬ反撃にあい、魔導士の体は安定を失って後ろに傾いた。そいつの顔を踏んで、ジークリートは宙に身を踊らせ、囲みを飛び越えた。少し離れた所に降り立つ。魔導士たちの注意は、こちらだけを向いている。
「精霊っていうのを見たことはないけど」
ジークリートは静かに言った。声は少しずつ、大きくなる。
「精霊がいるのなら、誰でもいい、今すぐここに来て、その力を貸してくれ!」
そして、少年は母から伝えられた言葉を、声高く叫んだ。
《イ・ユール・エ・グルオンシュカ!》
「グルオンシュカだと!?」
魔導士たちが驚愕の声を上げる。
グルオンシュカ、それは巫術師が使える精霊のうちでも最強の炎精の名だ。
その名を叫んだとたん、ジークリートの身体が、焼けるように熱くなった。
目の前がかすむ。その中で
《私を呼んだな、我が主よ!》
今までに耳にしたことの無い何ものかの声を、確かにジークリートは聞いた。
次の瞬間、銀色の炎が少年の身体を押し包んだ。
気がつくと、辺りには何もなかった。
岩だらけの山肌に、うっすらと灰が積もっているだけ。黒山のようにこんもりと見えていた森も、草木も、動くものの姿さえも。
きれいさっぱり、焼き払ったように、何もない。
空が明るいのは、真月のせい。
この、白く輝く大きな月が昇ってくると、それまで空にかかっていた《魔眼》は妖しい輝きを失う。すでに空に張り付いた小さな赤黒いかけらにすぎず、夜の情景は一変していた。
真月の透明な光が、ジークリートと、横たわる母と、ラスクを照らしている。
生きているのはジークリート一人だけ。
ふと、手の平を見る。
光っていた。
見つめていると、手の上に、小さな炎が立ち上がる。
ゆらり、と炎が揺れ、人の背丈ほどに伸びて、空中に人の形を描き出す。
男のようでもあり、女のようでもある、美しい姿だ。
《我が主よ……》
黄金色の炎が発した声は、遠い異国の音楽のような、耳慣れぬ響きだった。
ジークリートは、炎の描き出している人型をじっと見つめ、尋ねた。
「おまえが、ぼくに答えてくれた精霊か?」
《そうだ》
炎が揺れた。うなずくように。
《我が名はグルオンシュカ。火炎の精霊の王。どこにいても私はあなたと共にある。いかなる時も、私はあなたの求めに応じよう。いつでも呼ぶがいい……》
それはグルオンシュカの、ジークリートへの誓いだった。
夜空を雲が覆い始める。
月がかげり、闇が濃く辺りを包む中で、揺らめく炎は、一段と輝きを増したようだ。 ポツリ、つめたいしずくが落ちてくる。
高熱にさらされた大地に、雨が降ってきたのだ。
ジークリートの髪をぬらした雨が、頬をつたい落ちていく。
まるで泣いているみたいに。
ジークリートは天を仰いだ。乾ききった目に、雨がしみる。
サアァ……
ひそやかな雨の音が耳を塞ぐ。
「……母さん…… ラスクを…… 助けたかったよ……」
ジークリートは小さくつぶやいた。




