第2章 前半 真月(まなづき)の差す夜(改)
第二章
1
大粒の雨が降っている。天の底が抜けたかと思える程の土砂降りだ。
「少し急ぐぞ」
ジークリートが歩調を早めた。
「この先に村がある。雨宿りしよう」
キールはジークリートの背中を目で追い、ふと、気づく。
少年の柔らかな銀髪も、ゆったりと身体にまとう外套も、なぜかまったく濡れてはいないことに。
あれ? なんでこいつ、雨宿りしようなんて言ったんだ。
ジークリート自身は突然の雨にも困ってはいないのに。
*
小高い丘を越えると谷があり、雨にけぶる村の全体が一目で見渡せた。
森は深く、谷あいの村は、北の山から注ぐ川の流れに沿って細長く延びて、木の家が、ぽつりぽつりと建っている。
村に入ると、キールとジークリートは一番近い家の前に立って、扉を叩いた。
「あやしい者ではありません。にわか雨にあって困っています」
重い扉がわずかに開き、初老の婦人が顔をのぞかせた。
不安げなまなざしが、キールの上をすべり、ジークリートを捉え、背後の木立を透し見る。
すると、そのふっくらとした小さな顔に、笑みがいっぱいに広がった。
「お気の毒に! お入りなさい。女の子が一緒じゃ、大変だわ」
婦人が家の戸を大きく開けた。
「え」
女の子って、誰のことだ?
キールは傍らのジークリートを見やる。
確かに、華奢なこの少年は、黙っていれば美少女とも見えるに違いない。
「雨がひどいわ。早く中へ。さあ、そちらのお嬢さんも」
婦人が差し出した手の脇を、ジークリートはすり抜けて、戸口に立って振り返る。
その視線を追って、キールはけげんそうに、後ろを振り向いた……。
そこにはスーリヤが立っていた。
少女は困ったように首をすくめた。
「お前、なんでここにいるんだ!」
「やっぱり気づいていなかったのか」
ジークリートがぽそっとつぶやく。
「何っ! いつから知ってた!」
キールがかみつく。
ジークリートは顔色を変えない。
「本当に気がつかなかったのか?」
キールは本当に、まったく気がつかなかったのだ。
「ごめんなさい」
スーリヤが小さくなる。キールは怒れなくなった。スーリヤの手をとって、開け放たれた家の戸をくぐった。
どうりであの時、あっさり許してくれたわけだよなあ。と思った。
村の皆と別れて旅立つことを決めたとき、スーリヤは、兄キールの決意の固いことを知ると、それ以上引き止めようとはしなかったのだ。
「! ジギー!」
突然、キールが振り返ってジークリートをにらむ。
「今わかったぞ! 雨宿りしようって言ったのは、スーリヤのためだったんだなっ」
ジークリートは答えない。何を考えているのか……その整った面差しからは、うかがい知ることはできなかった。
*
家の奥には石を積んだ暖炉があって、薪が燃えていた。
濡れそぼったままキールたちが入口で立ちつくしていると、老婦人が奥から服をかかえて出てきた。
彼女のあとを二人の幼い子供たちが追いかけて歩いている。五、六歳ぐらいの男の子と女の子だ。
はにかみながら、こちらをちらちら見ては、笑う。
「さあさあこれに着替えてみて。ちょっと大きいけど、がまんしておくれ。娘夫婦のでね……おやまあ、よく似合うこと」
着替えてきたキールたちを見て、老婦人は微笑んだ。
が、ふいに、その笑顔が歪み、こみあげてきたものを抑えるように、前掛けを顔に押しあてたのだ。
「おばさん、どうかしたの?」
スーリヤが案ずると、
「何でもないんだよ。ごめんねえ」
笑みを浮かべてみせる、その目に、涙がにじんでいた。
子供たちが、心配そうに見上げている。
「かわいいお子さんですね」
スーリヤが子供たちに笑いかけると、
「ええ、孫で……娘夫婦の子供でね」
老婦人の口元がほころぶ。
けれどその微笑みには隠しようのない影がさしていた。
「話してください」
ジークリートが言った。
静かだがよくとおるその声は、人の心をとらえて離さないものを持っている。
老婦人はジークリートを見やり、深い瞳から目をそらせなくなり、とまどいを残しながらも、ゆっくりと話しはじめる。
「ここは水晶谷というところでね。グーリア王国の属領で、だから焼き払われたり滅ぼされたりすることはない、けれど毎年のように村の者が奴隷としてグーリア本国へ連れ去られてしまって誰も帰ってはこない。夫も、娘夫婦も……奴隷にされた者たちは故郷の私らのために逃げられず、私らは奴隷となってグーリアへ連れていかれた者たちのためにここを逃げ出せない……しかたないことなんだ。むかし、私らのしたことを考えれば……」
老婦人の声が途切れる。
それから、ふと我にかえって、
「ああ、どうしたのかねえ……見ず知らずの人に、こんなこと……」
独り言のようにつぶやき、顔をあげた。
子供たちが思い思いの場所で眠り込んでしまっているのを見て、老婦人はひとりひとりを抱き上げ、ほおずりをする。
子供たちを寝床に運んでいくのを手伝ったあと、三人は夕食をご馳走になり、暖炉の前にひろげて乾かされていた服を受け取って着替え、キールとジークリートは屋根裏部屋に、スーリヤは子供たちと寝るように案内された。
*
天窓から月が見える。真月だ。
満月だった。いつにもまして明るく冴えざえとした光を放っているようだ。
「……いつ見てもなんか、凄えな……」
しみじみとキールはつぶやく。
独り言のつもりだった。ジークリートは眠っているものと思っていた。ずいぶん、静かだったからだ。ところが、答えは返ってきた。
「月なんて、あまり見ない方がいい。白いのにせよ、赤いのにせよ……」
ジークリートらしい答えだった。
「起きてたのか、ジギー」
それきり、重苦しい沈黙が続く。
何を話したらいいのだろう、ジギーと?
考えあぐねて、キールも黙っている。
「ここには、長居はできない」
口を開いたのはジークリートが先だった。
「そうだな。先を急ぐ」
「……それだけじゃない」
ここでジークリートは言葉を切った。階段をのぼってくる足音がしたからだった。
しばらくして姿を現したのはスーリヤだった。
きっと屋根裏は真っ暗だと思っていたのだろう。天窓から差す月光の明るさにとまどい、階段をのぼりきったところでスーリヤは立ちすくむ。
「どうした、スーリヤ」
「……にいさん、怒ってる……?」
おずおずとスーリヤが言う。
キールは困った様に、頭をかく。
「いや、怒ってねえけど……。おまえ、皆には何て言ってきたんだ」
「にいさんについてくって」
「よくみんなも納得したなあ。お前、明日になったら、帰れ」
「今からじゃ追いつくなんて無理よ」
「おれが村まで送ってやるから」
簡単に決意をひるがえすような妹ではないことはわかっていた。だがその強情さにキールは困り果てて、ジークリートを見やる。
銀色の髪の少年は救いの手を出すはずもない。ただ、兄妹のやりとりを黙って見ているだけだ。
「おい、ジギー。おれ、明日スーリヤを送ってくるから、戻ってくるまで、ここで待ってて……くれないだろう……なあ?」
最後の方は自信なげだ。
ジークリートは冷たく、
「おれは先を急いでる。短い縁だったな」
「お、おい、ジギー!」
とりつくしまもない。
「にいさん、困ってるの?」
スーリヤはけろっとして
「あたしを連れていけば何も困らないのよ。あたし、きっと役に立つから」
と、胸を張った。
「決まりね! それじゃ、お休みなさーい」
勝手に決めつけて、スーリヤは毛布にくるまり、キールの横に寝転がる。キールとジークリートの間だ。
「こらっ! おれはまだ良いといってないぞ!それに何だ、若い娘が、お、男と……一緒に寝るだなんて!」
毛布から頭だけ出したスーリヤが、聞こえるように、ぽそっと言った。
「にいさん、おじいさんくさいって、思わない?」
キールの中で、なにかが音を立てて崩れていった。
「わかったよ、好きにしろ……」
キールは倒れ込み力なくつぶやいた。
するとスーリヤは毛布にくるまったまま、さっきとはうってかわった、しんみりした口調で言う。
「だって、にいさんと今まであまりゆっくり話したりすることがなかったし。それに……眠れなかった……下では……」
スーリヤの言葉がとぎれた。
真月のおもてを雲がよぎり、辺りがかげる。影の中にいる、スーリヤの声が震える。
「怖い夢を見るから」
消えいりそうに、言った。
キールは妹の顔を見る。
「ここにいろ。夢を見たら、おれを呼べ。すぐに行ってやる」
「……夢の中でも?」
「ああ。夢でもどこでも」
大まじめでキールは言ったのだが、スーリヤは笑いだす。
キールはとまどい、まあ、ようやく妹の笑顔を見ることができたのだからそれでもいいか、と思う。
毛布にくるまり、寝転んでまだ笑っていたスーリヤが、ふっと静かになった。見れば、眠っているのだった。幸せそうに。それでキールも安心して、眠ることにした。
2
スーリヤは黒い森の中に立っていた。
暗い空から、冷たく白い、花びらを思わせる薄いかけらが、あとからあとから落ちてくる。
ああこれが雪なんだとスーリヤは思う。
父さんがずっと前に教えてくれた。
北の国では寒い冬が来て、雪というものが降ると。
見覚えのない情景だった。
これは夢だ。
そして自分の夢ではない。
はっきりと見ようとして目をこらせば、夢の輪郭はぼやけていく。見ようと意識しないほうがいいようだった。
背の高い、銀色の長い髪をした若い女に手を引かれて、雪の積もった森の中を走っている夢。
その夢を見ているのは、まだ幼い子供のようだった。
女が立ち止まり、水精石色の瞳で子供を見やる。
子供は、手を握っている女を見上げ『おかあさん』と言った。子供が口にしたのは、スーリヤの知らない異国の言葉だ。けれどそれが心をすり抜けた瞬間、それが《母》のことだとわかる。『おかあさん』と呼んでいるのは、誰なのだろう。この夢を見ているのは……
「だれなの……」
自分の声で、スーリヤは目を覚ました。
まだ真夜中。天窓から月の光が差している。
『おかあさん』
そのとき、すぐ近くで、夢の中の言葉が聞こえた。
ジークリートの声だった。
スーリヤはそっと少年の顔をのぞきこむ。
苦しそうな寝顔だ。悪夢を見ているのだろうか。
ジークリートは寝返りをうって、また何かつぶやいた。
意味はわからない。スーリヤにわかったのは、たった一つの言葉だけだ。
……《母》を呼ぶ……あの言葉。
どうすれば悪夢が消えるのだろう。スーリヤはなすすべを知らぬまま、少年のつめたい手を握る。
ジークリートが目をあけて最初に見たものは、月光を背に、彼をのぞきこんでいる少女の姿だった。
目を細め、夢の続きのように、少年はスーリヤに向かって、『おかあさん』と、つぶやく。それからふいに、はっきりと目覚めたかのようにはね起き、スーリヤをまじまじと見つめ……目を、そらした。
「お母さんの夢を、見てたの?」
ジークリートは視線をはずしたまま、ぽつりと言った。
「……母は、死んだ。……君に……とても……よく似ていた」
しばらくの沈黙ののち、スーリヤは目を伏せて、言った。
「肉親が亡くなるのは、つらいね」
静かな声の内にひそむ意外な激しさに、ジークリートは少女をあらためて見つめた。
「あたしの母さんはずいぶん前に熱病で死んだ。父さんは怪我がもとで高い熱を出して。身近で人が死ぬなんて、もうまっぴらだと思ってたのに」
スーリヤが顔を上げた。
感情を抑えた声で、ぽつりと、
「昨日ね、ううん、一昨日だったかな。よく思い出せない。従姉妹のナンナが死んだの。あたしをかばってあの奴隷狩り部隊に殺されて穴に突き落とされた。本当なら、あたしが死ぬはずだったのに」
声が震え、とぎれた。
「あたし、必ず仇をとってみせる」
ジークリートは不思議な思いでスーリヤを見た。
太陽の似合う、くったくのない少女だと思っていた。彼女の中に、新月のように鋭い刃がひそんでいるとは。
「あたしには、にいさんの《牙》みたいな武器はないわ……でも、きっと……!」
スーリヤは小さなこぶしを握りしめる。
ジークリートと目が合う。二人とも何も、言わなかった。
と、そのとき。ものすごいいびきがした。
いびきの主は、キールだ。
「……もうっ。何が、夢の中でもどこでも行ってやる、よ!」
ふと、スーリヤはジークリートを見つめ、首をかしげた。
「それはなに? 金色の炎があなたをつつんで、守ってるみたい」
「きみにはこれが見えるのか?」
何の修養もなくとも、精霊に触れることのできる人間はいる。だが高位の存在となれば、精霊が自ら姿を見せようとしているのでもなければ、そうたやすく人の目に映るものではないのだ。
「え…… だってそこに……」
ジークリートの手を指す。
スーリヤの反応は、間違いなく精霊の姿をはっきりと見ている者のそれだった。自分の目にしているものを疑ってもいない。
「熱くないの? きれいな金色の炎…… 何か聞こえる。歌っているみたい。でも何て言ってるのかわからないわ」
目を丸くして、身を乗り出す少女を、ジークリートはまじまじと見つめた。やがて、ぽつりと、つぶやいた。
「きみはふしぎだ……。きみみたいな子は、初めてだ」
感嘆するように、彼はじっとスーリヤを見た。スーリヤはきょとんとしているばかり。
「おお…… 何だぁ?」
今の今までよく眠っていたキールが、ぶつぶつ言いながら起き上がった。
キールにはまったく状況がわからないのだが、
「その男には無理だ」
ジークリートに断言されると、急にむっとする。
「おまえら何だ、おれを除け者にして」
ジークリートは取り合わず、スーリヤに手の平をひろげて、金色の炎を示した。
「これは精霊、グルオンシュカだ。きみたちの言葉では、クーイー・プルバ…… 炎の聖霊という存在に近い」
キールたちの部族、クーナ族では、自然界に存在する力、風や水、雷などを、聖霊と呼び、畏敬の念を抱いている。
炎の聖霊と聞いてキールも神妙な顔でジークリートの手もとをのぞきこむが、やはり何も見えなかった。
ジークリートは金色の炎を見つめ、
「母が死んだ時、おれはグルオンシュカから、自分の出生のことを聞いた」
それは何気無い口調だったが、スーリヤはハッと目を見開いた。
少女の目にはその時、グルオンシュカの黄金色の炎が、大きく伸び上がり揺らいだのが見えたのだ。
まるでジークリートの心を映したようだ。
「おれはグーリア国王、ギア・バルケスの息子だ」
兄妹は、その場に凍りついた。
「やつと戦わなくてはならない。それが、おれの宿命だ」
静かに、しかしきっぱりと、ジークリートが言った。
その瞬間、天窓から差し込んでいた月光がかげり、暗くなって、ふたたび明るくなる。月のおもてを雲がよぎり、また月が現れたのだ。
その光が照らしだしたのは、息を呑み立ちつくすスーリヤ。そしてジークリートの首に《牙》を突き付けるキールだった。
白い少年の肌から、今にも深紅の血潮がほとばしるかと思える。
空気が極限に張り詰める。だがジークリートの顔にはどんな感情も読み取ることはできない。凍てついた氷原の下に閉じ込められた大地を探そうとするように。
「まったく……ジギー」
キールは溜息をつき、《牙》を退ける。
スーリヤがほうっと息を吐く。
「おれは……本当にバカだから、よくわからねえ。でも、あんたは」
キールは苦しそうに、ジークリートを見る。少年の首筋に微かに紅く、小さな血の珠が盛り上がる。《牙》の触れた跡だ。
「あんたは、おれの命の恩人だ」
「おれを憎まないのか」
感情を込めない静かな声でジークリートは言う。
キールは激しく頭を振る。
どんな言葉も虚しく響く。
けれど黙っていたらジークリートには何も伝わらない。どうしていいかわからず噛みしめた口の中、鉄さびの味が広がる。
「……ちっくしょおっ! おれと勝負しろ!」
ジークリートはあっけにとられている。
キールは全くの本気だった。腰に差していた《牙》を抜き取り、スーリヤに手渡す。
「預かっててくれ。こいつを持ってたらジギーに怪我させるかもしれねえ」
「そんなのだめ、にいさん!」
「このままじゃおれたちは敵の顔さえ見られないで終っちまうんだ!」
そして、ジークリートに向かい合う。
「おれが少しでも戦えると思わせてやる!」
「……わかった。だが、お前が負けたら、グーリアへ向かうのをあきらめろ」
「そう簡単に負けてたまるかよっ!」
叫ぶと同時にキールは突進した。それをジークリートは軽くかわす。敏捷さにおいてはジークリートの方が勝っていた。
キールもすぐにそれを悟り、力技に持ち込もうとする。
「武器を手離したのはお前の勝手だが、おれは手加減する気などない」
ジークリートはどうあってもキールたちを引き返させたいと思っている。そして手段を選ぶつもりも毛頭ないのだ。
《我を守護する炎に属するものよ》
その呪文にこたえて、炎がジークリートの手に集まり始める。
「心配するな、殺しはしない」
ジークリートの身体が金色に輝く炎に包まれる。それはキールにも見えた。と、炎は次の瞬間、キールめがけて襲いかかってきたのだ。
熱風で息がつまる。ちりちりと、身体の表面を炎が焦がす。
スーリヤの悲鳴が聞こえた。
キールは目を開け、正面を見据える。炎の向こうに、敵が、いる。
身体が、震えた。炎の中で寒気がした。
「うおおおお!」
叫びながらジークリートに飛びかかる。
銀色の髪の少年に触れたとたん、炎は四散して消えた。
「何て無茶なやつだ」
ジークリートの顔に、微かに笑みが浮かびはしなかったか?
「にいさん!」
スーリヤが駆けよってきた。
いきなりキールをひっぱたく。
「おお!?」
意外そうな顔をしている兄の腹を、さらに叩く。
「ばか! 死ぬかと思ったじゃない」
それからスーリヤはジークリートを見て、
「ごめんんなさい。にいさんはこんなばかだけど、でも…そう捨てたもんじゃないと思うわ。わたしも、負けないから、一緒に行かせて」
「……わかった」
承諾するしかなかった。
二人とも決意は固そうだ。これ以上止めても、聞き入れはしないだろう。