第7章 その7 闇の少女、赤き魔女
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「ラト・ナ・ルア? あなたは精霊なの?」
「精霊族と呼ばれていたこともあるわ。知ってるでしょう、この世界の名前はセレナン。あたしたちの名前もセレナン。どちらも同じよ」
スーリヤの心に、ぽつんと一つの灯りがともる。
「母さんが寝る前に話してくれた、お話に出てきた。いつでも人間のそばにいて人が良いことをするのも悪いことをするのも、ぜんぶ見ている。困っている人を助けてくれたり、悪い人を罰したりしてくれるって」
「そんな言い伝えがあるの? 始めの方は、ほぼ合ってるけど、後の方は違うわ。神さまじゃないんだから、そんな力はないし、できないわよ」
「そうなの? でも、いつも人間を見ているんでしょ?」
「そうね。ただ、あたしたちは、人間や動物と同じように有機的細胞から構成されていて、地面を歩き、目で物を見て、耳で音を聞き、手で触っていろいろなものの情報を得る存在。人間と出会って話をしたり関わり合ったりするのも、あたしたちの役割なの。……ううん、だったのよ」
「……だった?」
「いま、この世界に、精霊族はもういない。あたしがサウダージで人間に殺されてから、みんな、存在するのをやめてしまった。世界に還元されて。大いなる存在に呑み込まれ、溶けてしまったの」
「かんげん……?」
「長くなるけど。ここでは時間の感覚もないでしょう。話につきあって? あたしといれば、あなたの魂が汚染されることもないはずだし」
夥しい精霊火の青白い光に包まれた少女、ラト・ナ・ルアは、優しく微笑んだ。
闇に捕らわれた人間の少女スーリヤを、哀れむかのように。
全てが光を失い自分の身体さえ見ることのできない闇の中で、スーリヤにとって、精霊ラト・ナ・ルアに接することだけが、かつて自分が存在していた世界、兄や、銀色の髪の少年につながる、ただ一つの手がかり、希望だった。
「あたしが殺されたときの話をしようか。百年も前のことだけど、あたしたち……あたしと兄さんは、サウダージという国で、ある異変が起こった兆候を感じた」
「お兄さんがいるの?」
「やっぱり気になるのはそこか」
ラト・ナ・ルアは小さく笑った。
いたずらっぽく、ときおり、もっと幼い子供のように見える。
「あなたと兄さんより、あたしと兄の外見の年齢は離れていた。精霊族には、年齢もあまり意味は無いこと。兄の名前は、レフィス・トール・オムノ・エンバー。辺境の地の生命の司という意味よ。このあたり一帯のセレナン族を取りまとめていた長みたいなもの」
「どんな人だったの。教えて」
せっぱつまったようにスーリヤは、こいねがう。なぜなら自分は、しだいに兄の名前もどんな人だったかも忘れかけていることに、気づいたからだ。
「とても心が綺麗で、優しい人。いつも、あたしを心配してばかり。人間と関わるような無茶をやらかすから。そして、兄の案じていた通りになっただけのこと……」
「後悔しているの?」
スーリヤが、声をあげた。
「あたしも、あたしも悔やんでるの。なんで死ななかったんだろう。なんで、あたしが生き延びて、あたしを守ってくれた母さんやナンナが死んだの。あたしが、あがいたりしないでおとなしく死んでいたら……!」
「だめだよスーリヤ! 呑まれてしまう!」
ラト・ナ・ルアが手をのばした。
だが、輝くその手に触れるものはない。
闇が、どこまでも深く、沈むばかりだ。
「……なんで、あたしなんかが生きて……」
風のようなつぶやきが、流れていく。
※
枯木の森を吹き抜ける乾いた風のような声が、玉座のグーリア王にささやく。
『王よ、何を考えて居られるのか』
グーリア王の玉座は一個の赤い岩を彫りあげた物。巨人の椅子といってもおかしくないような頑丈な造りだった。
グーリア王ギア・バルケスは、岩山のような灰褐色の巨体に、染めを施していない生のままの粗布の衣をまとい、カラウ河の河口付近に棲むどう猛な肉食獣キルケアの皮をなめして磨き、黒光りのする艶を出した帯を締めている。
王の傍らに、黒い柱が立っている。
本来、柱は水晶のように透明で、内部にあるものをそのまま見せているのだ。
そこにあるのは、闇だ。
その中に一人の少女を閉じ込めたままの暗黒。
ときおり闇は揺らぎ、少女の姿も、また、ゆらゆらと揺れる。
『何のためにその娘を側に置かれるのか』
魔導士、エクリプスたちの声には、非難めいた調子が含まれていた。
『おまえたちには関係ない』
王は立ち上がり、柱の中に閉じ込められ、闇に漂う少女を見る。
『この娘を捕らえなくとも、あれは必ずやって来ただろうが。わしを殺すためにな……』
グーリア王の背後から、声がした。
「そうだねえ。ジークリートは復讐に凝り固まっているよ。それこそ、あんたのことしか頭にない。まるで恋人を思うようにさ。哀れだねえ」
そこに佇んでいるのは、深紅の長い髪に、昏い赤に沈む目をした、黒く長い衣に身を包んだ美しい女だった。二十歳そこそこか、それともすでに老婆だろうか。年齢をうかがわせる要素はない。
『全て、そなたの采配だろうに。戦乱を欲し、人間の苦悩を望み。血を流す戦場を好んで彷徨っていた魔女、セラニア』
「それくらいのことは許してもらうさ。だって、私の本当に欲しいものはいつも手に入らないのだ。それは、おまえも同じだろう、ギア・バルケス」
『わしは何も望んではいない』
「そうだよねえ」
魔女は手を打って、たけだけしく笑う。
「おまえが望んだのは、ただ、死にたくない、生きていたいと、それだけだった。わたしは、それを叶えた」
『対価に、わしの全てを要求した』
「全て? すべてってなに?」
きょとんと魔女は首をかしげる。
「ああ……愛? それだけは、おまえの手に入らなかったねえ……。親を、兄弟姉妹を、親族を、全員殺しても。だけど、王国は、おまえのものさ。不死もくれてやろう。わたしが、おまえに加護を与えているかぎりは」
さもおかしそうに魔女は笑い続けた。
「もうじき、おもしろいものが見られる。何がいい? ギア。おまえの息子と信じ込んでいるジークの復讐が潰える絶望の顔? おまえを出し抜いたつもりでいる赤の巫女王に、人質の命を天秤に乗せて見せつけてやる? それとも……」
『もう黙れ。うるさい』
「それとも、憎たらしい世界を、もう一度、いや何度でも転覆させてやろうか。我が白き腕持つ、夜と死の支配者、慈悲の女神の、長き憂いを引き替えにして」




