第7章 その6 ラト・ナ・ルア
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スーリヤが気がついたとき、周囲は暗黒に包まれていた。
不思議なことに、全ての感覚が無い。まるで身体は喪われてしまって意識だけがここに在るかのように。
上下左右もわからず、熱さも寒さも知れず痛みも皮膚に触れる感覚も無い。
今はいつなのか、どこなのか。
確かなものは何もない。
孤独が胸の奥底を凍りつかせる。
闇が迫ってくる。
苦しくて兄を呼ぼうとした。
けれど名前が出てこない。
大切なことなのに思い出せなくなっても胸が痛まない。そのことを悲しむ心さえないのに気付かない。
虚しさだけが心に残る。
その心の穴に闇が流れ込む。
時間だけは充分にある。
彼女は考えていた。
月明かりの下で、たったひとり、真月に捧げる舞いを踊る、赤毛の少女。
銀色の長い髪をなびかせて、回廊を渡っていく若い女性の姿。
陽光も届かぬ深い森の中、豪奢に飾られた馬車が、手に手に剣を振りかざした何人もの男たちに止められ、御者は殺される。
馬車から引きずり下ろされた少女が蹂躙され惨殺されるのを、彼女は見た。スーリヤの村を襲ったベレーザと同じような騎竜にまたがった、血に飢えた男達に。
死んだ少女の身体を包み込む精霊火。
人の悪意が。
どす黒く闇に淀む。
精霊火に浄められるならばまだいっそ幸せだと、スーリヤは思いに沈む。自分の魂の底に淀む汚泥のような闇を、省みずにはいられない。
明るく輝いているのは兄だ。
真っ直ぐなまなざしに射られるのは物狂おしいけれど。
兄と共に居るときは闇から目を背けていられる。
だからなおも敵を追う兄と離れて故郷へ還るのはいやだった。村には母も、従姉妹ナンナも、もういない。スーリヤを庇って命を奪われたから。
けれど、スーリヤは、名前さえ忘れた兄の姿を思い、共にいた少年の姿を思い出す。
銀色の髪をしていた。きれいな深紅の瞳だった。
思い出さなくては。
銀色の髪の少年が、《………………》と呼んでいた、あの美しい、黄金色の炎。
少年が教えてくれた炎の名を。
そのことを考えているときだけ、闇と孤独が離れていく。
スーリヤはただ一心に、黄金色の炎と、炎をまとった銀色の髪の少年のことを思った。
「あなたにとって、それは一番大事な思い出なのね」
闇の中から、声がした。
幼い少女の声だ。少なくとも自分より幼い。
まもなく、目の前に、少女が現れた。
闇の中にあって、闇に染まらず。
精霊火を身体じゅうにまとわりつかせている。
十二、三歳ほどに見える少女は、ほっそりとした肢体に、淡い水色を帯びた銀色の長い髪と、水精石の、明るい瞳をしていた。
精霊の色だ。
「あたしはラト・ナ・ルア。精霊よ。ああ、もう生きてはいないけど。人間のお嬢さん、あなたとお目にかかるのは初めてね」
無邪気そうに少女は笑った。
※
スーリヤの心の奥深くで、囁く声がある。
(心配しないで。もしも大切な人を思い出せなくなっても、死にたいほどつらい目にあっても、あたしが助けてあげる。あたしが、何もかも代わってやってあげるわ)
その声の主は、楽しそうだった。




