第6章 その4 宝石の王女
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グーリア王国の首都と同じ紅い宝石にちなんだ名前を持つ少女ソルフェードラは、王国の城に備わった細く高い塔の一室に住んでいた。
国王である父には滅多に会うことはなかった。年に一度、拝謁として多くの側仕えに囲まれ、大広間で遠くから王の姿を見るだけである。
言葉は交わさない。
息災かと尋ねられ、無言で頷くだけ。
外国から嫁いできた母は側室の一人であり、ほかの側室達も同様に、子供をもうけてから数年のうちに亡くなっていた。王妃の椅子は空のままであるのがグーリア王国の建国時からの習わしである。
ソルフェードラには父を同じくする6人の兄と5人の姉がいた。
成人に達するまでに子供が死亡することは少なくなかったため、グーリア王国では、どの家庭でも、夫婦が若いうちに多くの子供をもうけるものである。中年を過ぎてから子供を持つことはない。それは国王でも同じだった。
父はどれか一人の子供に親しくすることを避けていたようだ。
父母との縁は薄かったが、子供たち同士は親しかった。大部屋に兄弟姉妹たちがすべて集められて遊ぶことも、何度もあった。
末の妹である彼女は、兄や姉たちに可愛がられた。
「お父様はあなたがとても大切なのよ」
親しかった、すぐ上の姉、ルーナリシアが言った。
「だから、あなたには一番貴い宝石の名前をつけたんだわ、ソルフェードラ」
優しい声、穏やかな微笑み。
「わたしは、ルーナねえさまのなまえのほうがいい」
姉は笑って、末妹の頭を撫でた。透明で硬質な宝石、月晶石の名前そのままに清く美しい姉のことが、ソルフェードラは誇らしかった。
グーリア王国の開祖、古代竜の吐いた息が生んだと言われる始祖グーリア真王ギルガル・ガウム・バルケス。
人の身では考えられないほどの長寿をもって、数々の伝説を残した英傑がエナンデリア大陸の南部に築いた国は、子孫達に受け継がれ、長い時を経て末裔たちの時代になっても連綿と繁栄を重ねてきた。
だがグーリアの民には、真王ギルガルの呪詛がかけられているという。
長寿と引き替えに、壮年を過ぎ初老にさしかかる頃から、身体は石のように硬くなっていくのだ。ことに真王の血を濃く継いだ王族、貴族たちに、それは顕著であった。
……だから義兄バルケスは、わたしたちを憎んでいる。兄弟姉妹の中でもとりわけ、母親がグーリア人ではないルーナ姉さまとわたしを。
……成長するにつれて腕に顕れる、王族の印。竜の鱗と呼ばれた、硬い皮膚。バルケスがそれに怯えていると、乳母が話してくれたことがある。怯える者は、護身と自らの安堵のために何をするかわからないと。王族でありながら竜王の呪いを免れた者、わたしたちを、激しく憎悪していたのだろう……
ふわり、と頬に何かが触れる感触に、意識が引き戻された。
そこは、白い木々に囲まれた、森の中のようだ。
夜とも昼ともつかない薄明かりが頭上から差している。
あれは木漏れ日? 真月の光?
『気分はどう?』
子供の声がする。
目を開けると、ソルフェードラ王女の傍らには、幼い少女が佇んでいた。
銀色の長い髪、透き通った明るい水色の瞳。整った面差しは、青みを帯びていると思えるほどに白い。
「だ、れ」
たったそれだけの声を発するのにひどく苦労した。
身体が、びくとも動かない。
『しゃべる必要はない。思うだけで通じるからだいじょうぶ』
幼子が言う。
『だって、わたしは精霊だから』
「そ、れ、で……」
精霊と聞いて彼女は納得する。
おとぎ話に、乳母から聞かされていた。
この世界にあまねく存在する聖なるもの。
『わたしはスゥエ。虹、という意味の名前よ』
思い出した。
神話に伝わる……約束の虹……二度と、人間を、滅ぼさないと……
『あなたは死んだの。だから精霊の領域にいる』
……死んだ。……ああ、そうだった……
「わ、たし、は、コロサレタ」
『しゃべらないで』
精霊の幼女が、かがみこんでソルフェードラの唇に手を当てた。
「おもい…だす、わ、たしは」
身体も動かせず、けれど涙があふれてこぼれた。
『かわいそうに、罪なき幼児よ。つらかったでしょう。怖かったでしょう。痛かったでしょう。悲しかったでしょう。けれど、もういいの。真月の女神イル・リリヤの腕に掬い上げられた、あなたはもう、肉体にとらわれてはいないのだから。あとは、手放すだけ。その苦痛の記憶への執着を』
……それは、死ぬということ? 死んだと、受け入れろということ?
身体が動かないのに、痛みはないのに、まだどこかが軋んでいる。
脇腹から腕から胸から足から、熱い血が流れ出ているような気がして、ふいにソルフェードラは声にならない叫びをあげた。
身体が熱い。血管にたぎっているのは溶けた鉛か。
「……ゆるさ、ない」
ソルフェードラが血を吐くように絞り出した声は、そのまま、漆黒のもやとなって王女の身体から周囲に拡散していく。
「わたし、は、コロサレタ。蹂躙、サレタ。呪、わ、れた」
王女の身体が痙攣を始める。
スゥエは悲しげに眉をひそめた。
『やはり……このままでは、あなたは世界を呪う毒になってしまう。あのギルガルのように』
スゥエが右手を振り上げると、そこに光があふれた。
おびただしい数の球状の光が集まり、闇を食らい、そのままソルフェードラの身体に群がっていく。王女の身体じゅうに空いた傷口をふさぐように。
「…せ…い、れいの、火」
精霊とともに現れる光の球体が、ソルフェードラを包む。
『ギルガルの末裔よ、生まれながらに祖先の罪を負う幼児よ。あなたを傷つけたものたちに復讐をしたいのね? 悪いけれど、それはだめ。ギルガルに最も近い強い力と血を持つあなたに、彷徨う殺戮者になられては困るの……わたしは虹。人間を決して滅ぼさないと約束した……』
光の球体は傷口から入り、温かな湯のように身体の中を巡っていく。
『生きて。長い人生になりそうだけど、あなたは生きて、幸せになって。ルーナリシアはそう願っていたわ。最期まで』
優しい囁きがソルフェードラの胸に満ちた。
『あなたを逃がすために力尽きた兄弟姉妹たちのことを覚えていてあげて。あの者たちが太陽神殿に助けを求めた。そして、わたしたち(セレナン)が来たの』




