第6章 その3 眠り姫
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『ねっ、驚いたでしょう? グーリア王家の紋章をつけた馬車なんて。そもそも、それがこの国に来ていたこと自体、知らなかったでしょ?』
精霊の少女は楽しげに言う。
『ラト。いい加減にしなさい。それではまるで人間のようではないか』
制止したのは、レフィスという青年だ。彼も精霊である。
少女が人間のような振る舞いや物言いをするとかなり怒る。しかしながら傍から見れば二人ともずいぶんと人間に近い感情をあらわしているようだ。
「畏れながら。まことにゆゆしき事態と申し上げるより他はありません……」
さて今後はどうすべきか?
フィリクスは思慮を巡らせる。
王を乗せるほどには大きくもなく頑強でもなさそうな2頭立ての瀟洒な馬車。おそらく乗っていたのはグーリア王家の一員か、傍系の者か。
その馬車が森の中で横転している。
しかも周囲に人影もなく、馬車は激しく損傷している様子だ。
乗っていたであろう人物は、何者で、身柄はどうなっているのか?
『フィリクス様。この状況、あなたは、どう思う?』
まるで心を読まれたような気がしてフィリクスは動揺したが、できるかぎり表情には出さないようにつとめた。
「中にいる人物は、もしや、グーリア王家の縁の女性ではありませんか? グーリア王はかなり身体が大きい。王自身のものではないはず。しかし紋章入りであるので、身分の高い人物のために用意されたものと」
『あたり。正解だわ殿下。では答えを。こちらへ来て』
にっこり笑って、ラトが手招きをする。
横転した馬車の向こう側。
ふわふわと浮かぶ精霊火に包まれて、横たわる少女がいた。
銀色の髪が柔らかに緑の草の上に広がっている。
年の頃は十五、六歳だろうか。
これまでに見たこともないほどに美しい少女だ。
整った面差し、透き通るような頬に、血の気はない。
貴人の纏う、高価な白絹の衣装。
けれどその衣装は、おびただしい血に浸り、剣で貫かれたか裂かれたかしたように激しく損傷を受けていた。
「こ、これは……この少女は、亡くなっている……のか」
『でも、きれいな人でしょ? 近寄って、さわってみて』
言われるままにフィリクスは騎竜を下り、横たわる少女に近づいた。
跪いて、そっと手を差し伸べる。
触れるのには、少し勇気がいった。
白い頬は、ひんやりとして、けれど滑らかで柔らかい。
「眠って……いるのでしょうか?」
『ええ、今はね』
「今は?」
『その少女は一度、死んだのだ』
レフィスの声が降ってきた。
『肉体の損傷は我々が治しておいた。ただ、目覚めるにはきっかけが必要なようだ。彼女の意識が戻らない』
「では、眠り姫……? なんという、美しいひとだろう」
フィリクスは、横たわる少女の顔を食い入るように見つめていた。
心を奪われたという表現がしっくりくる様子だ。あるいはレフィスの言葉も、耳に入らなくなっていたかもしれない。
彼は少女の手を取り、つめたい手の甲に、唇を押しつけた。
すると……
横たわる少女の手と、まぶたが、ぴくりと動いた。
やがてゆっくりと、少女は目を開いた。夏空のような、澄んだ青い瞳だ。ぎこちなく、何度も瞬く。
ふしぎそうに、周囲に目を配る。
起き上がろうとはしたが、まだ起きることはできなかった。
「……ここはどこ……侍女たちは……どうしたのかしら……あなたは、だれ?」
「フィリクス・レギオンと申します」
「……フィリクス、さま? ……あなたのお名前……どこかで聞いたような……わたしは……ソルフェードラ・ガウム・バルケス……義兄から、にげて、きたの……おねがい、たすけて」
切れ切れに呟いて、少女は再び、まぶたを閉じた。
「なんと美しい方だ。やはり、王女…」
うっとりと、フィリクス・レギオンは声に出して言った。
「この御方のためなら私は、なんでもできる」
再び、少女の手を取る。
『よかった。きっとあなたは彼女に心ひかれるだろうと思ってた。薄幸のお姫様よ! ね、彼女を助けてあげて?』
『…ラト。後でじっくり話そう。君はいったい、どこでそういう俗世間の知識を…』
『え~? 赤い魔女よ。彼女もあたしも、お互い退屈してるし、情報交換すると面白いの』
『やっぱり。前も言ったが、あれは危険な存在だ。接触するのもいいが、ほどほどにしておきなさい』
『はぁ~い。つまんないの~』
ラトとレフィスのやりとりの間も、フィリクスは眠り姫の顔を見つめていた。
ややあって、振り返り、跪いたまま、精霊たちの方を見上げた。
「この私に力を貸して欲しいと、先ほど精霊様はおっしゃられましたね。もし、彼女の身柄のことでしたら、私にできることならば、なんなりと!」
王女ソルフェードラ登場。のちのルーナリシアです。
精霊らしからぬ好奇心旺盛なはねっかえりのラトと苦労人レフィスの話、しばらく続きます。




