第6章 その2 ラトとレフィス
この回、初めの方は前回の最後のほうの文章を書き直したものです。
前の回の、重複する部分は削らせて頂きます。
精霊火の大河の中に、一人の少女が佇んでいる。
年の頃なら十二、三歳ほどの、華奢な美しい少女である。
炎に包まれてでもいるかのように、青みを帯びた銀色の長い髪が、重力に逆らって上になびいていて。水精石色の瞳が、青白い光を放っているようだ。
「そなたは……」
フィリクスは息を呑む。
まるで……伝説の。
人の世界にはあり得ない、超越の存在が、微笑んだ。
『これが伝説に聞いた《精霊》なのか、と思っているのでしょう? フィリクス・レギオン』
透き通った声が、フィリクスの胸中に直接、響いた。
『わたしの名前は、ラト・ナ・ルア・オムノ・エンバー。精霊の言葉で、辺境の地に生じた最後の子供、ラト、という意味よ』
その言葉は心臓に深く打ち込まれた。
紛れもなく真実だ。疑うべくもない。
いやしかし。
あまりにも直裁すぎないだろうか?
真の名前にしろ通称やただの呼び名にしろ、人に教えるのは大きな危険をはらむことだから、普通は、名乗りあうまでに時間がかかるものである。
フィリクス・レギオンは戸惑いを覚えないではいられなかった。
「おそれながら、いと高き御方、創世の精霊様。よく知らないわたしに、そこまで名前をあかしてもよいのですか?」
少女は、きょとん、とした。
なんのことか理解できないようだ。
ややあって、ああそうだった、とつぶやく。
『そういえばあなた方人間は、名前というものにこだわるのだったわね。よくわからないのは、真の名前だとか呼び名だとか使い分けていることだわ。名前など、どう呼ぼうと、個体の本質は変わらないでしょうに?』
小さく声をたてて笑った。
鈴を転がすように。
「は。申し訳ない。人間にとっては名前も、それにつきまとう氏素性、身分というものなども、切っても切れないものなので」
フィリクスは冷や汗をかいていた。
『では質問に答えるわ。あなたのこと、あたしはよく知ってる』
ぽんと胸を叩いて胸を張るしぐさは、愛嬌があり、いかにも子供っぽくて、あまり、伝説の存在である創世の精霊様らしくはない。
『フィリクス、あなたは小さい頃、コマラパ老師に案内されて、森の民しか入れないことになってる精霊の森を訪れたことがあるでしょ』
「いかにも」
『そのときから、将来有望そうな子だと思って目を付けてたの。だからね、このあたし、ラト・ナ・ルア・オムノ・エンバーは、エルレーンのフィリクス・レギオン様と、すでに縁は結ばれているのよね』
少女の口調が、ずいぶん砕けた物言いになった。
くすっ、と笑う。
まるでいたずらを仕掛けようとする子供のようだ。
フィリクスは居住まいを正した。
騎乗していた白亜竜から下りて、地面に片膝をつく。
「そなたが、人と約束を交わした善き精霊ならば、もちろん、わたしは敬意をあらわし、跪こう」
昔、師より教わった、精霊への礼の尽くし方である。
少女は片手を差し出して、フィリクスの肩に触れる。
『懐かしき礼をお受けしましょう。幼き者よ』
厳粛に、こう言った後で、すぐに手をひらひら振って、にやりとする。
『……な~んてね。硬いことやめやめ! めんどくさいもの』
伝説の中の美しい精霊とは少しばかり、いや大いに違う。
まるで人間の子供ではないか。
フィリクスが困惑していると、さらに少女は笑う。
『だからあたし、よく長たちに怒られちゃうんだけどね』
ラトと名乗った精霊の少女は、小さな舌をペロリと出した。
「はてさて。このようなこと言っていいかどうかわからぬが。そなたはまるで精霊らしくないな?」
『だいじょうぶよ。あたし、よくそう言われるから気にしない』
屈託のない調子で言う。
「……あらためて伺わせて頂きたい。我ら人間など遙かに超越した存在である精霊様の、ただの人間であるこのわたしへの頼み事とは?」
精霊の少女の顔から、笑みが消えた。
すっと感情が抜け落ちたかのように、無表情のまま少女は告げた。
『この精霊火が、天を巡る赤い瞳を遮っている、今、このとき。あなたの助けを真に必要とするものがいる』
フィリクスには、このお告げの真意は測りかねた。
「わたしの理解が及ばず申し訳ない。どうか、端的に言っていただけまいか?」
すると、対面していた少女の唇から「くすっ」と笑みがこぼれ、次の瞬間には再び少女のあどけない面差しに、豊かな表情が戻ってきた。
『昔の司祭たちはこのような詩的な言葉でないと、たとえ意味はわかっていても受け付けてくれなかったけど。はぁ、時代は変わったわけだね~』
このうえなく楽しげに。
『あなた方、人間のいう「約束された新世界」《蒼き大地》は、この千年の間、エナンデリア大陸も含めて、全天を一夜で巡る『魔天の瞳』によって常に監視されている。というのも「赤い魔女」の仕業だけど。その瞳の監視を眩ませられるのは精霊火が覆っている場所だけだから』
「は?」
『建物の内部にいてさえ『魔天の瞳』の探索を逃れるすべはない。わたしたち精霊の統合意識そのものである精霊火の包んでいるところと、精霊の領域である元始の森の中だけが監視の目から完全防御できる場所なの。つまり、ね』
ラトは、唇に人差し指をあてる。
『内緒話をするには今が絶好のチャンスだ、ってわけ』
まるで誘惑するように、笑った。
精霊火でこのあたりを囲んでいるのはこの少女の意図したことなのだ。
2
『あたしについてきて』
精霊の少女ラトに促されてフィリクス・レギオンは騎竜を進める。
相変わらず彼の周囲は精霊火が取り巻いているが、いつしか彼の騎竜も、熱のない火球の群れに慣れてきたものか、この後は落ち着き、もう歩みを乱すことはなかった。
しばらくは両側に森を見ながら街道を進んでいたが、じきに精霊火と少女ラトは街道を離れ、深い森の中へと彼を誘う。
一歩踏み込めば、白い炎が足元から燃え立つ森。
緑濃く繁る木々の梢は、フィリクスのみならず騎竜の頭上をも覆い隠すほどに高い。
目にするものすべて幻ではないのかとフィリクスは頭を振った。更に何度も瞬きをしたが、森の景色が消えることもない。
これは原初の森だ、とフィリクスは思う。
入り口こそはエルレーンとグーリアを結ぶ街道沿いの森だが、分け入ってみれば、すでにそこは人間の知る世界ではない。
振り返らずとも彼の知る街道などはもう後方の遙か遠く、どのあたりから入ってきたのかも、もはや定かではない。
「精霊様! まだ、進むのか」
『もう少しよ』
どのくらい歩んだ頃だろうか。
意外なものが足元に見えてきた。
「これは、轍?」
えぐれたように深いすじが二本刻まれている。いや、二本ではない。重そうな四輪の乗り物が通過したあとの轍か。
『そのとおり』
もう少しだと言われてから、すぐのことだ。
行く手にあったのは、馬車だった。
馬車が横転している。
近づいてみると、小ぶりだが乗合馬車などではない、身分の高い者を乗せるために飾られた華奢なつくりの、二頭立ての馬車だった。
しかし、通常なら車を牽引しているはずの、馬の姿は、ない。
『遅いぞ、ラト』
待っていたとおぼしき人物が、馬車の傍らに立っていた。
見たところ二十歳そこそこくらいの青年だ。
長身で、どちらかといえばやせている。
顔立ちは美しく上品で整っており、腰まで届くまっすぐな髪は青みを帯びた銀色。
水精石色の切れ長な目、ラトと同じ、色の白い肌。
もうひとり、精霊が現れたということに、フィリクスは内心、激しく驚いていた。
『ごめんなさい、レフィス。でもね、見て! ちょうどうってつけの人が近くにいたから、連れてきちゃった!』
『……なるほど』
ラトは後方に立ち、騎竜を牽いたフィリクスを振り返る。
『フィリクス。紹介するわ、わたしの兄。レフィス・トール・オムノ・エンバー。堅苦しい顔をしているけど、許してやって。融通がきかないのよね。レフィス、こちらはフィリクス・レギオン様』
青年はあからさまに呆れたようにため息をついた。。
『またそんな、人間のようなことを……少しは考えなさい』
『え~』
ラトに向かって釘を差したあと、フィリクスに向き直る。
『フィリクス・レギオン様か。ラトがご迷惑をおかけした。ご足労頂いて申し訳ない』
非常に上品な印象のある美青年である。
「いえ! とんでもない」
フィリクスはレフィスという青年の前に歩み寄り、頭を垂れる。
「精霊様にお目にかかれるとは、思いもよりませんでした。わたしに何か、お役に立てることがあるのでしたら、なんなりと」
『それは何より。では、こちらへ』
横転した馬車のそばへと誘う。
「こ、これは?」
フィリクスがよく見れば、馬車には王家の紋章が小さく描かれている。問題は、その紋である。
「これはグーリア王家の紋……!」
フィリクスの背筋が冷えた。
王家の紋章をつけた、小ぶりながらも豪奢な馬車が、エルレーン公国からそう遠くない場所で、横転しているなどとは。
最悪の場合を考えないではいられないのだった。
生前のラトと、レフィスの話です。




