幕間 その2 月の子 (改)
( 月の子 )
セレナンの蒼き大地、エナンデリア大陸。
蒼空の支配者、青白く若き太陽神アズナワクが真昼の空を駆ける覇者ならば、黄昏より、薄明の暁まで、漆黒の空を往く月は、夜と死の支配者。
白き光の腕を差し伸べ、地上の生きとし生けるものたちを、慈しむ。
されど夜ごと、月はその姿を移す。
精霊と人と、果て無き約束のために、虚空を旅す。
*
水晶の谷と、昔から呼ばれている小さな国がある。
その国はエナンデリア大陸東部、中央からやや南寄りに位置する。深い森と草原の接する辺縁地帯である。
黒い森、草原、河と湖。それらから得られる大いなる恵みにより、国民は穏やかで満ち足りた暮らしを享受していた。中央山地に接する谷で産出される黄金も、豊かな財政を約束していた。
さらに、金の鉱脈に付随する産出物として、水晶がある。この大陸では、むしろ水晶の価値の方が高かったのだが。
太陽の巫女王と、それを助ける月の巫王とが治める水晶の王国、キスピ。
堅実なるが故に長き繁栄と幸福に満たされた国。
*
空には朔の、生まれたばかりの月が浮かぶ。
ほのかに赤く染まる影の月。
夜空には満天の星が輝く、星月夜。
今宵、この国では、とある重大な行事が執り行われる。
現女王の世継ぎの王女が誕生して、ちょうど三年目。
三歳の名付けの儀式に、国内外から重要な客人たちが訪れていた。
南に位置する隣国グーリア王国から派遣された、白き太陽神ソリス神殿に仕える、最高位の神官たちと、最も親しい同盟国グーリアからの使者達がいる。
南東に位置する共和国サウダージから派遣された政府高官。
西に位置する強大国エルレーン公国から聖職者たちが。
エルレーン公国東に位置する古王国レギオンの王族が。
この水晶の谷の世継ぎ、継承の儀式に駆けつける。
小さいながらも水晶と大理石で築かれた瀟洒な王宮の張り出し窓から、女王とその伴侶たる王とが、その胸に幼い王女を抱いて姿を現せば、夜にもかかわらず詰めかけた人々は大歓声をあげた。
「太陽の女王さま! 月の王さま!」
「お世継ぎの王女さま!」
人々は喜びに沸いていた。
世継ぎの誕生は、彼らの国の存続とも直接かかわることである。
また、諸外国からの使者たちは、競い合うように、こぞって祝いの言葉をのべた。
「王女殿下が無事に名付けのときを迎えられました事、まことにめでたい。お祝い申し上げまする」
「太陽と月の王国、水晶の谷の高貴な血を今に伝える、お世継ぎの誕生を、心よりお祝い申し上げ奉ります」
さらにグーリア神官たちは頭を垂れたままで、幼い王女に近づいた。
「ご尊顔を拝します光栄、まこと恐れ多きこと。この国の信奉する太陽神は、その名こそ周辺諸国に倣っておられるが、今では数少ない古き園の白き太陽ソリスの化身。我らグーリア王国の白き太陽神殿と同じ起源に基づくもの。いにしえよりの同盟国として慶賀に馳せ参じました」
「お祝いを」
「太陽と真の月の祝福を。このよき日に」
来賓の中で最上位の賓客たる者は、王みずからの手で振る舞われた祝いの酒の杯を高く掲げ、声を合わせた。
この良き日。
キスピ女王の後をつぐ、長じては将来の「太陽の巫女」となるべき子が生まれ、三歳になった祝いの席。
それは、今となっては平民たちにはほとんどおぼろげな記憶さえも残されていない楽園、白く古き園の記憶を未来に伝えるべき継承者としてであった。
「生命の無限の始まり、久遠の当初より生を受け、幾たびも滅して散ずるも再びこの世に生を受けし太陽の御子」
女王が奏上し、伴侶なる国王が続ける。
「我らがひとり娘を、代々の女王に名付けられる名に則り、旅する星と名付ける」
三歳の名付け式を終えると、子供は人となる。
それまでは精霊の領分に属するのだ。
谷の女王である母の腕に抱かれた幼子は、まどろみの中にいた。
女王は祭壇に進み出、清水を湛えた水盤の上に子供を掲げた。
夜空を映す水盤には満天の星と、朔の月が宿る。
「御子に祝福を。」
月の宿る暗い水面。
幼子を抱いた腕を差し伸ばす。
「ここに、白き太陽の復活を願い奉る」
大理石の水盤から水を掬い、
眠り続ける幼子の額や頬に少し振りかける。
子供は目を覚まさない。
「太陽の子よ」
子供の胸に、小さく円を描く。
そこから白い光が溢れだす。
幼子は眠り続けている。
光を溢れさせているのは、幼子の胸に置かれた水晶の結晶。
現在の「太陽の巫女」であるキスピの女王が、跡取りである娘の洗礼を施す。
「それでは、これにて儀式は恙なく執り行われたことを認める。我はこれより先、女王の身に永劫の加護を約束しよう」
主賓の座から、金色の髪、金色の目をした少女が声をかけた。
まだ幼さの残る容姿は、十代半ばと思われる。
彼女は振り返り、背後に佇む者に手を延べた。
「これより候補者のうちから選び出される、新たなる世代の月の巫王には、我が娘、このセラニスが生涯の加護を与える」
娘、と呼ばれたのは、まだ十歳にも満たないような幼女であった。
背中に流れ落ちる深紅の髪、暗赤色の瞳は、いまだ、かぎりなく無垢で、人の世に降り立った月光のよう。
続いて、三人の少年が祭壇の前に進み出る。
一人は黒髪、黒い目、浅黒い肌。
二人目は、茶色の髪と目。
最後の一人は、赤い髪と茶色の目。
彼らは全員、背格好も面差しも似通っていた。
皆、年齢は同じ、七歳。
「ミリヤどの。こちらの者たちが、此度の月の巫王の候補でございます」
「選ばれるのは一人」
「ほかの二人は王に最も近しい従者となり生涯をかけて次代の王にお仕え申す」
神官たちが深く頭を垂れる。
奏上は形式のみ。
居並ぶ者たちは、代々の伝承者による口伝で、部族の歴史を学んできた。
ゆえに、連座する全ての者が儀式の意義と次第をよく心得ている。
小国ながら古い歴史を持つキスピにおいて、建国の意義を問いかけなおすための、千年にも及んで続けられている重要な行事であると。
「これより裁定を行う。選ばれた者が他の者より優れているということではない。ただ、太陽の御子と手を取り合いこの谷を守っていけるか、それだけである」
こう言い放ったのは、さきほど奏上を述べた、ミリヤ。金色の髪と目をした、十代半ばと思われる少女だ。
「わたしは初代の王より、この役目を託された。といって、このわたしにも予知の能力があるわけではない。ゆえに、許せ」
「高貴なる御方、我らはあなたの前にひれ伏しまする」
「見極めをお願い致します」
「許せ、と申したのは、将来のことだ。いずれ遠からぬ未来、争いがこの大地に起こり、戦乱の嵐が吹き荒れるだろう。その流れは、我にも止められぬ」
黄金の髪の少女は、ほろり、と、一粒の涙をこぼした。
「今から謝っておく」
小さな頭を垂れる。黄金の滝が背中にこぼれ落ちた。
顔を上げた、そのときには、少女の頬を一筋、きらきらと伝うものがあった。
「いけません、ミリヤさまが、そのような!」
「おそれ多うございます」
国王の侍従たちが慌てふためく。
少女は、ふと遠い目をして、なおも何事かをつぶやいた。
「許せよ。それが未来との約束なれば。その代償に、わたしは心を捨てたのだ。もとへは戻れぬ道を往く……許せよ……叔父貴どの……母」
「あなた方のもとへは、もうしばらく行けそうもない。まだ師匠はこの世に居てくれそうだが」
しだいに囁きとなり、消えていった語尾。それを聞き取れたのは、幼い赤毛の王女の前に跪いている、ミリヤに我が娘と呼ばれたセラニスひとりだけだった。
セラニスは微笑む。
「愛しいお母様。ご安心を。わたくしは必ずや、お役目を果たしましょう。この蒼き大地の、寄る辺なき嬰児たちの守護者となりましょう……」
そして、ひとこと。
「こんどのお母様のように慈悲深くやれるかどうかは保証できませんけれど」
やがて空にのぼる暗赤色の月、真月とは呼ばれぬ、もう一つの月にも似た、かたまりかけた血の如く昏い光を、瞳に湛えて。
*
この夜、名付けの儀式を終え、世継ぎと認められた王女パワ・チャスカは、生涯を王国と民に尽くし、伴侶である月の王とともに仲むつまじく暮らし、終生、この国を出ることはなかった。
*
何代か後の女王の治世に、グーリアから戦乱が起こり大陸全土を巻き込み、王国が消滅しようとは、この儀式に連なった誰もが夢にも思わなかったことであろう。
じつはちょっと過去の話です。
2015年1月31日 (改)




